和尚のひとりごと№1193「聖光上人御法語前遍三十一」

和尚のひとりごと№1193「聖光上人御法語前遍三十一」

 

もし三万六万も念仏を始めて、一月二月(ひとつきふたつき)も申して、その後(ご)は打ち捨てて、一年も二年も念仏を申して、その後は打ち捨つる、長時修(ぢょうじしゅ)に非ず。 善導和尚(ぜんどうかしょう)この長時修を釈し給う様(よう)は、畢命(ひつみょう)を期(ご)と為(な)して、誓って中止せず、即ち是れ長時修なりと。この文の意(こころ)はもしは念仏にてもあれ、もしは礼拝にてもあれ、 何れにてもあれ、往生極楽の勤めをし始むる時、本尊の御前(みまえ)にて大いに誓(ちかい)を立てよ。いわゆる此の念仏もしは勧め、今日の只今(ただいま)始め候、命(いのち)終るまで此の念仏、此の勤めをば、し候べきなり。今日より後(のち)、命終らざる先(さき)、その中に更に怠るべからずと、我が本尊に能(よ)く能(よ)く此の事を証(あか)せさせ給えと、此(かく)の如(ごと)く本尊に懸(か)け奉りて誓(ちかい)を成(じょう)ずべし。もし此の旨(むね)を背(そむ)きて三万六万を始めて遂げずして、念仏も申さずして、空(むな)しく徒(いたず)らに候ものならば、本尊の愍(あわれ)みを蒙(こうむ)らず、もろもろの仏法守護(ぶっぽうしゅご)の夜叉鬼神(やしゃきじん)の御罰(おんばつ)を厚く深く蒙るべし。此の誓を立つべし。 是れは我が心ながら、私が心の強く成り候なり。

畢命(ひつみょう)を期(ご)と為(な)す

もし人日に三万遍も六万遍もの念仏を称え始めて、ひと月、ふた月と称え続けたが、そのあとは念仏を打ち捨てたり、一年、二年と念仏を称えたが、そのあとは打ち捨てる、このような場合は長時修とはならない。善導和尚(ぜんどうかしょう)がこの長時修を解釈し給うに、「命畢(おわ)わるまでを期間となして、誓って中止しない、これこそが長時修である」と。この一文の意(こころ)はそれが念仏であろうと、礼拝であろうと、いずれにしても、何かしらの往生のための実践行を勤め始めるときには、本尊の御前(みまえ)にて誓いを立てること。つまりこの念仏もしくは修行は、本日只今(ただいま)より開始致します。これより命終わるまでこの念仏、この修行を続けます。今日よりこの先、命終わるまでの期間怠ることはありませんと。自分の本尊に向かいこの誓願に対する証(あかし)を授け給えと、このように本尊を前にすべてを賭け奉る覚悟で誓いを成就すべきである。もしこの主旨に反して三万遍・六万遍の念仏を開始したものの成就せず、念仏も称えなくなり、誓いもむなしく意味のないもののなれば、本尊よりの愍(あわ)れみも蒙(こうむ)ることなく、諸々(もろもろ)の仏法守護の夜叉(やしゃ)や鬼神(きじん)の神罰を受けることともなろう。この誓いを立てなさい。これはわが心とはいえ、誓いによりその脆弱なその心が強固なものとなるのであるから。