和尚のひとりごと№1192「聖光上人御法語前遍三十」

和尚のひとりごと№1192「聖光上人御法語前遍三十」

 

第四に長時修(ぢょうじしゅ)とは極楽に生れんと願(ねご)うて、先に明かす所の恭敬修(くぎょうしゅ)・無余修(むよしゅ)・無間修(むけんじゅ)、此の三修(さんじゅ)を命を畢(おわ)るまで修して、長く捨てずして往生する、是れを長時修と云うなり。此の長時修を念仏について心得る様(よう)は、我れ極楽に生れんと願じて念仏を三万にてもあれ六万にてもあれ、始めて申すに死ぬるまで念仏を申して、更に怠(おこた)らず申すは、是れ長時修なり。
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またのたまわく、正助二行(しょうじょにぎょう)に於いて発心(ほっしん)より巳来(このかた)、畢命(ひつみょう)を期(ご)と為して誓って中止せず。即ち是れ長時修なり。
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さらに長時修。退転流動(たいてんるどう)の心を対治(たいじ)す。礼讃に云わく、畢命を期と為して誓って中止せざるは、即ち是れ長時修なり。
西方要決(さいほうようけつ)に云わく、初発心(しょほっしん)より乃(すなわ)ち菩提に至るまで、恒(つね)に浄因(じょういん)を作して終(つい)に退転(たいてん)すること無し。
私(わたくし)に云わく、余行(よぎょう)に准望(じゅんもう)して此の文意(もんい)を得(え)るに、誓って中止せざれとは本尊並(ならび)に三宝を勧請(かんじょう)し奉り、その宝前(ほうぜん)に於いて香華(こうげ)を辨備(べんび)し、大誓願(だいせいがん)を発(おこ)して往生の行業(ぎょうごう)を始むべきなり。 畢命(ひつみょう)を期と為して此の行に於いては永く以て退転すべからず。 もし此の旨に違(い)せば永く以て三宝の冥助(みょうじょ)を蒙(こうむ)らず地獄の薪(たきぎ)とならんと。

長時修(ぢょうじしゅ)

四修の第四長時修とは極楽世界に生まれようと願って、すでに明かしたところの恭敬修(くぎょうしゅ)・無余修(むよしゅ)・無間修(むけんじゅ)、この三修を命畢(いのちお)わるまで修めて長い期間にわたって捨て去ることなく往生を遂げること、これを長時修という。この長時修(ぢょうじしゅ)を念仏に関して理解すれば、わたくしは極楽へ生まれようと願って念仏を三万遍(さんまんべん)でも六万遍(ろくまんべん)でも、最初に申してから死ぬまで念仏を申して、さらにそれを怠ることなく申し続ければ、これが長時修である。
またこうも仰っている。
正行・助行の二行について最初に発心した瞬間から、命果てるその瞬間まで、誓って中止することがない、すなわちこれが長時修である。
さらに長時修は志(こころざし)が退転すること、流動的となり定まらぬ心を対治する。
『往生礼讃』にいわく。「命尽き果てるその時までを期間となして誓って中止しないことは、すなわちこれが長時修である。」
『西方要決』にいわく。「初めて菩提心を起こしてより菩提へと至るまで、常に浄らかな因を作(な)してついに退転することがない。」
わたくしが申し上げるに「他の諸行を推し量ってこの文意を引き出すに、〈誓って中止しない〉とは、本尊と三宝を道場内に勧請(かんじょう)して、その御前(みまえ)に香・華を供え、大いなる誓願を発(おこ)して往生へ向けた実践行を始めるべきである。
そして〈命尽き果てるその時までを期間となしてこの行を〉とは、以後末永く退転することがあってはならぬ、ということである。」
もしこの主旨にたがえば永く三宝の不可思議なる助けを蒙(こうむ)ることはなく、ついには地獄で燃え盛る薪(たきぎ)となり果てるであろうと。