和尚のひとりごと№1191「聖光上人御法語前遍二十九」

和尚のひとりごと№1191「聖光上人御法語前遍二十九」

無間修(むけんじゅ)を悪様(あしざま)に云う人あり。いわゆる凡夫(ぼんぶ)はいかでか此の無間修を修せん。その故(ゆえ)は隙(すきま)なく申すと云わば、夜(よる)は寝る事あり、昼は大小便利(だいしょうべんり)、或いは物を食(くら)い、細々(さいさい)の用事どもあり、かようの凡夫の身には、いかんが此の無間修を修すべしと云う人あり。それは安き事を僻(ひが)める人の僻様(ひがざま)に云う事なり。 無間修に長短(ぢょうたん)の二つあり。十返の内にも無間(むけん)の心あり、二十返の内にも無間のことわりあり。或いは一万返の内にも無間のことわりあり。況や二万三万返の内に於いておや。故に十返は短(たん)の無間、二十返は長(ぢょう)の無間。 一万返は短の無間、二万返は長の無間なり。是れを無間修と云うなり。

無間修(むけんじゅ)の長短(ぢょうたん)

無間修を悪(あ)しざまに評価する人がいる。いわゆる凡夫が如何様(いかよう)にしてこの無間修を修められようか。なぜならすきまなく称えるというが、夜は寝ることもあろう、昼間は大小用を足したり、あるいはものを食べたり、様々な些事がある。このような凡夫の身で、如何にしてこの無間修を修められようかという人がいる。それは行うに易い行をゆがめて受け止める人による誤った理解である。
無間修に長(ぢょう)・短(たん)の二種がある。十遍の念仏の内にも無間の意趣(こころ)があり、あるいは二万遍の内にも無間の理(ことわり)がある。であれば二万三万の内においてはどうであろうか。この故に十遍は短の無間、二十遍は長(ぢょう)の無間。一万遍は短の無間、二万遍は長の無間となる。これを無間修というのである。