和尚のひとりごと№1190「聖光上人御法語前遍二十八」

和尚のひとりごと№1190「聖光上人御法語前遍二十八」

 

第三に無間修(むけんじゅ)とは、隙(すきま)なく念仏を修(しゅ)するなり。また阿弥陀仏に於いて隙(すきま)なくつかえたてまつるなり。或いは香花(こうげ)をまいらせて、阿弥陀経を読み奉り、念仏申して正行助行(しょうぎょうじょぎょう)隙(すきま)なく修する、是れを無間修と云うなり。 故(こ)法然上人の仰せられ候いしは、この無間修が四修(ししゅ)の中(なか)によくよく念仏を勧めたる修(おさめ)にてありと仰せ候なり。よくよく此の行に心を留(とど)むべきなり。念仏を構(かま)えて構え多からんに申せなんどと勧むるは、此の無間修の心なり。一万三万六万返ならんと勧むるはみな是れ無間修の心なり。是れを云われたる心なり。
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またのたまわく、念念相続して正助二行(しょうじょにぎょう)を修するを無間修と名づくるなり。
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さらに無間修。懶惰懈怠(らんだけたい)の心を対治(たいじ)す、是れ勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)の心なり。 礼讃(らいさん)に云わく、相続して恭敬(くぎょう)し礼拝し称名し讃嘆(さんだん)し憶念(おくねん)し観察(かんざつ)し廻向(えこう)し発願(ほつがん)し、心心相続(しんしんそうぞく)して余業(よごう)を以て来(きた)し間(ま)じえざれ。 西方要決(さいほうようけつ)に云わく、常に念仏して往生の心を作(な)せ。 一切の時に於いて心恒(こころつね)に想巧(おもいたく)すべし。所以(このゆえ)に精懃(しょうごん)にして倦(ものう)からざれ。 当(まさ)に仏恩(ぶっとん)を念じて、報(むくい)の尽(つ)くるを期(ご)と為して、心に恒に計念(けいねん)すべし。

無間修(むけんじゅ)

第三に無間修とは、すきまなく念仏を修めることである。また阿弥陀仏に関してすきまなく仕えたてまつることである。あるいは香・華を供えて、『阿弥陀経』を拝読し、念仏を称えて正行も助行もすきまなく修める、これを無間修というのである。亡き法然上人が仰せられるには「この無間修こそが四修の中でも最も念仏行を勧めているものである。」よくよくこの行に心を留めておくべきである。念仏に心をいたして、それが多ければ多くなるほどにますますもって念仏を称えようとさせる事が、この無間修の意(こころ)である。一万返(いちまんべん)三万返(さんまんべん)六万返(ろくまんべん)などと念仏を勧めるのは皆これ無間修の意である。これを言わんとする意(こころ)である。
またこうも仰っている。「一念(いちねん)一念(いちねん)と相続して正行・助行の二行を修めるのを無間修と名付けるのである。」と。
さらに無間修は、おこたりなまける心を対治する。これはまさしく勇ましくも果敢に精進する心である。
『往生礼讃』にいわく。「相続して阿弥陀仏をうやまい、礼拝し、名を称え、ほめたたえ、心に深く念じ、そのお姿をありのままに見たてまつり、信を廻向して発願し、刹那ごとの心がそのように相続して他の行を交えきたることなかれ。」
『西方要決』にいわく。「常に仏を念じて往生への心を作(な)すようにせよ。すべての瞬間において心は常に想うようにせよ。だからこそ懸命に励んで怠惰ならざれ。まさに仏の恩を心に念じて、この身尽き果てるそのときがやってくるまで、心中で常に念を作(な)すようにせよ。」