和尚のひとりごと№1189「聖光上人御法語前遍二十七」

和尚のひとりごと№1189「聖光上人御法語前遍二十七」

 

第二に無余修(むよしゅ)とは、ただ一脈(ひとすじ)に彼の阿弥陀仏の御名(みな)ばかりを唱(とな)えまいらせて、余の行い勤(つと)めを為(な)さざるなり。是れを名づけて無余修と云う、また専修(せんじゅ)とも云うなり。
またのたまわく、一向専修(いっこうせんじゅ)にして雑行(ぞうぎょう)無きを名づけて無余修となすなり。
さらに無余修。雑起(ぞうき)の心を対治(たいじ)す、是れ疑慮不定(ぎりょふじょう)の心なり。
礼讃に云わく、専(もは)ら彼の仏の名を称し、専ら念じ専ら想い専ら礼(らい)し専ら讃(さん)じて余業(よごう)を雑(まじ)えざれ。 西方要決(さいほうようけつ)に云わく、専ら極楽を求めて弥陀を礼念(らいねん)す。 但(ただ)し諸余の業行(ごうぎょう)をば雑起(ぞうき)せしめざれ。

 

無余修(むよしゅ)

第二に無余修とはただひとすじ阿弥陀仏の御名(みな)を称えさせていただき、それ以外のすべての修行や勤めを行わないことである。これを名付けて無余修といい、また専修(せんじゅ)ともいうのである。
また仰っている。「一向専修にして雑行(ぞうぎょう)をしないことを無余修というのである。
さらに無余修は、雑行をなそうとする心を対治する。このような心は疑(うたが)い推(お)し量(はか)ろうとする定まっていない心である。
『往生礼讃』にいわく。「もっぱら彼の仏の名前を称え、もっぱら念じ、もっぱら想い、もっぱら礼拝し、もっぱら讃歎(さんだん)して、他の実践業を交えないことなかれ。」
『西方要決』にいわく。「もっぱら極楽を求めて阿弥陀仏を礼(らい)し念ず。ただし諸々の他の実践行を交えて行おうとしてはならない。」