和尚のひとりごと№1188「聖光上人御法語前遍二十六」

和尚のひとりごと№1188「聖光上人御法語前遍二十六」

 

第一に恭敬修(くぎょうしゅ)とは、先ず念仏とは本尊持経(ほんぞんじきょう)をもうけて貴(たつと)く道場を荘厳(しょうごん)して、その中に於いて東向きに阿弥陀仏を置き奉り、香花燈明(こうげとうみょう)、時の菓子を備え、我が身手(しんしゅ)を洗浴(せんよく)し、口を灌(すす)ぎ、 袈裟衣(けさころも)を着(ちゃく)すべし。もし男女(なんにょ)は新しき衣(ころも)を着、もしよごれて不浄に覚えたる着物を着すべからず。さて道場に入(い)りて仏を見まいらせて畏(かし)こまりて、もしは手を合掌(がっしょう)し、もしは香炉(こうろ)を取り、もしは念珠(ねんじゅ)を持ち、もしは持たずとも申さん念仏は恭敬修の念仏なり。また道場に入らずとも、ただ手を洗いうがいなんどして、西に向かいて申す念仏は是れも恭敬修なり。
またのたまわく、恭敬修(くぎょうしゅ)とは極楽の三宝(さんぼう)を恭敬し、あるいは娑婆(しゃば)の住持(じゅうじ)の三宝を恭敬す。 娑婆の持の三宝とは、一つには仏宝とは木像画像の阿弥陀、本尊是れなり。 二つには法宝(ほうぼう)とは黄紙朱軸(おうししゅじく)の浄土三部経、持経(じきょう)是れなり。 三つには僧宝(そうぼう)とは念仏修行の好伴同行(こうはんどうきょう)なり。 善知識(ぜんちしき)是れなり。
さらにまた恭敬修。または慇重修(おんじゅうしゅ)と名づく、橋慢(きょうまん)の心を対治(たいじ)す。
礼讃(らいさん)に云わく、彼の仏及び一切の聖衆等(しょうじゅとう)を恭敬(くぎょう)し礼拝(らいはい)す。
西方要決(さいほうようけつ)に恭敬修に五つあり。
一には有縁(うえん)の聖人(しょうにん)を敬(うやま)う。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に西方(さいほう)に背(そむ)かざれ。
二には有縁の像経(ぞうきょう)を敬う。 一仏二菩薩(いちぶつにぼさつ)の像を造り尊経(そんきょう)を抄写(しょうしゃ)して恒(つね)に浄室(じょうしつ)に置く。
三には有縁の知識(ちしき)を敬う。浄土の教えを宣(のぶ)る人。
四には有縁の同伴(どうはん)を敬う。同修行の者(もの)。
五には住持(じゅうじ)の三宝(さんぼう)を敬う。今の浅識(せんしき)のために大因縁(だいいんねん)となる。

 

恭敬修(くぎょうしゅ)

第一に恭敬修とは、先んじて本尊と持経(じきょう)を準備して気高き様子に道場を荘厳して、道場内に東向きに阿弥陀仏を安置し、香(こう)・華(げ)・燈明(とうみょう)、季節の菓子を供えて、わが身の身体と手を洗い浄め、口をすすいでから、袈裟・衣を着用すること。男性であれ女性であれ新しい着物を着て、もし汚れて見えるようであればそれは着用しないこと。
そして道場に入ったら阿弥陀仏を拝見し畏(かしこ)み、あるいは手を合わせて合掌し、あるいは香炉を手に取って、あるいは念珠をかけて、またあるいはこれらを持たずともここで称える念仏はまさしく恭敬修の念仏である。また道場に入らずとも、ただ手を洗いうがいをして、そして西に向かって称える念仏はまたこれも恭敬修である。
またこうも仰っている。
恭敬修とは極楽の三宝(さんぼう)をつつしみうやまう事である。あるいは娑婆(しゃば)世界(せかい)において大切に守り伝えている三宝をつつしみうやまう事である。娑婆で守り伝える三宝とは、一つに仏宝とは木像や画像の阿弥陀仏、本尊そのものである。二つに法宝とは横紙に朱軸をあしらう浄土三部経、保つべき所依の経典これである。三つに僧宝とは念仏修行の善き同伴、同行の者たちである。これこそ善知識(ぜんぢしき)であると。
さらにまたこうも仰っている。
この恭敬修は慇重修(おんじゅうしゅ)とも名づけられ、おごりたかぶる心を対治する。
『往生礼讃』にいわく「彼の仏および一切の聖なる方々などをつつしみうやまい礼拝すべし」。
『西方要決』に恭敬修に五つありという。「一つには有縁(うえん)の聖者(しょうじゃ)をうやまうこと。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に西方(さいほう)に背を向けることなかれ。
二つには有縁の仏像・経巻をうやまうこと。一仏・二菩薩の三尊の像をつくり尊き経を書写して常に浄められた道場に安置すべし。
三つには有縁の善知識をうやまうこと。浄土のみ教えを宣(の)べ説(と)く人々である。
四つには有縁の同伴をうやまうこと。同じ修行をともにする人たちである。
五つには守り伝えている三宝をうやまうこと。現今の理解浅き者たちのために力ある因縁となる。」

『往生礼讃』
唐の善導大師、浄土の教えの要文を集めたもの。

『西方要決』
慈恩大師基、法相宗の祖。西方往生に対する疑難を釈し、その往生を勧めたもの。