和尚のひとりごと№2494「浄土宗月訓カレンダー11月の言葉」
和尚のひとりごと№2494「普通ってなぁに?」

私たちは何気なく「普通」という言葉を使います。「普通はこうする」「それが当たり前だ」一度は口にされたことがある言葉です。けれども、自分にとっての普通は、誰にとっても普通なのでしょうか。私たちが「普通」と呼んでいるものは、決して当たり前のもの「普通」ではありません。時代や人によって大きく変わるものです。
今から850年程前、「普通」とされていた考えに大きな転換をもたらされた方が法然上人です。法然上人は、若くして比叡山に登られ、仏教の教えを深く学ばれました。「智慧第一の法然房」と称されるほど、たいへん優秀な僧侶でした。当時の仏教界では、厳しい修行を積み、難しい経典を学び、悟りを目指すという道が大切にされていました。しかし、法然上人は一つの大きな問いを抱かれました。「厳しい修行が出来ない人はどうなるのか」「文字を読む事の出来ない人は救われないのか」世の中には、学問の出来る人もいれば、出来ない人もいます。健康で修行に励める人もいれば、病や老いによって、思うように身体を動かせない人もいます。それにもかかわらず、修行の出来る人だけが救われるというのであれば、全ての人を救おうとされる仏様の慈悲は、一体どうなるのか。法然上人自身もどんなに学問修行を積んでも悩みや苦しみ、欲の尽きない我が姿に悩んでいかれました。その答えを求めて、長い年月、仏教の教えを学び続けられました。そして、善導大師のお言葉を通して、阿弥陀様の本願に出遭われたのです。「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える者を、阿弥陀様は分け隔てなく救い取ってくださる。学問が出来るかどうか。身分が高いか、低いか。立派な修行が出来るか出来ないか。そのような人間側の物差しによって、阿弥陀様の救いが分けられるのではなく、ただ阿弥陀様の本願を信じ、お念仏を称えていく。これこそが、誰もが歩む事の出来る道であると法然上人は確信されたのです。そして法然上人は比叡山を下り、京都の吉水に草庵を結び、お念仏の御教えを広めていかれました。
これまでの仏教界で大切にされていた修行や学問のあり方からすれば、「ただお念仏を称える事で、全ての人に救いの道が開かれる」という教えは、決して当たり前のものではありませんでした。当時の「普通」から大きく踏み出されたわけです。しかし、法然上人は、ただ人と違うことをしたかったわけではありません。新しい事をして世間を驚かせたかったわけでもありません。ただ一つ、全ての人が救われる道を明らかにしたかったのです。
誰にでも当てはまる「普通」は、なかなかないものです。人それぞれ、生まれた場所も、育った環境も、抱えている悩みも違います。同じように生きている人など、一人もおりません。それでも、たった一つ私たちに共通する事があります。それは、誰もが悩み、迷い、老い、やがて命の終わりを迎える存在であるという事です。そして、そんな私たち一人ひとりに、阿弥陀様の救いの願いがかけられているのです。法然上人が比叡山を下りてまで伝えてくださったのは、まさにそのお念仏の教えです。法然上人が説かれたお念仏の道は、特別な人だけの道ではありません。今ここに生きる、私たち一人ひとりの為の道です。普通でなくても、立派でなくても、迷い多きこの身のままに、阿弥陀様を頼み、お念仏を称えて過ごして参りましょう。
