和尚のひとりごと№2493「浄土宗月訓カレンダー10月の言葉」
和尚のひとりごと№2493「日々の努めは先の安心」

毎朝欠かさずお仏壇にお茶を供え、静かに「南無阿弥陀仏」とお念仏をお称えしている年老いた母親が居られました。ある日その姿を見て息子さんが尋ねました。「毎日毎日、お仏壇に手を合わせて同じことをして何になるの」母親は、微笑みながら答えました。「何か特別なことが起こるからしているのではないのよ。今日も無事に朝を迎えられたことに感謝して、これから先、どんなことがあっても慌てないように自分の心を整えているのよ」
それから年月が過ぎ、その母親は病に倒れ入院することになりました。心配する息子に、母親は静かに言いました。「大丈夫。病室でも毎日お念仏を称えているし、阿弥陀様がいつも一緒にいてくださるから大丈夫よ」そして、いつものように「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と穏やかに称えました。その姿を見た息子は、「ハッ」と気付かされました。母親が毎朝続けてきたお念仏は、ただの日課ではありません。一声一声が心の支えとなり、不安な時にも揺らぐことのない「安心」を育てていたのです。
法然上人は、「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」とお示しくださいました。難しく考えたり、自分を立派に見せたりするのではなく、素直な心で、ただひたすらにお念仏を称えることが大切であるというお言葉です。私たちは、先のことが分からないから不安になります。しかし、明日の安心は、突然どこかから与えられるものではありません。朝夕に手を合わせて、阿弥陀様を信じお念仏を称え続けること。その日々の積み重ねが、これから先の心の支えとなっていきます。また法然上人は、「生けらば念仏(ねぶつ)の功(こう)つもり、死なば浄土へ参りなん」とお示しになりました。生きている間はお念仏の功徳(くどく)が積み重なり、命を終える時には阿弥陀様のお迎えをいただく。そのように思えば、生きることにも死ぬことにも、大きな安心をいただくことができるのです。浄土宗では「安心」を「あんじん」と読みます。お浄土を願う者が備えるべき心構えのことです。「安」とは安置(あんち)、「心」は心念(しんねん)の意味で、世間に揺れ動かされる不安定な心に対して、修行によって得られる安定した心の状態を言います。しかし、浄土宗の御教えでは心揺れ動く散乱した心のままでも良いと説かれます。阿弥陀様を信じ、極楽へ生まれることができるのだと信じていくことが大事なのです。法然上人は、迷いや悩みを抱えた心揺れうごくままでも、阿弥陀様にお任せしてお念仏を申すところに、本当の安心(あんじん)があると説かれたのです。
病気、老い、別れ、死など、生きていれば不安はなくなりません。安心とは、それらを避けられるということではなく、何があっても阿弥陀様のお慈悲の中にあり、命の終わりには極楽浄土へ迎えられると信じることです。例えば、暗い夜道を歩く子どもも、親に手を握ってもらえば、暗闇の中を進んでいけます。道が急に明るくなったわけではありません。「ひとりではない」と分かるから歩いていけるのです。お念仏による安心(あんじん)も然りです。心が揺れ不安を感じた時も、悲しい時も、喜びの時も、先ずは一声「南無阿弥陀仏」と申してみる。その一声一声の中に、阿弥陀様と共に歩む安らぎがあります。
大切なのは、一度に大きなことをすることではありません。今日できる小さな努めを、今日一つ、明日また一つと重ねていくことです。今日のお念仏が、明日の心を支えます。日々の努めが、やがて先の安心となるのです。手を合わせ阿弥陀様に全てお任せして、共々にお念仏をお称えして過ごして参りましょう。
