和尚のひとりごと№1327「浄土宗月訓カレンダー5月の言葉」

和尚のひとりごと№1327「ゆっくり休んでまた動き出す」

 一休宗純(いっきゅうそうじゅん)上人は室町時代の禅僧で「一休さん」と呼ばれ、テレビアニメにもなった有名なお坊さんです。

『有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)にかえる 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け』

 

 この歌から「一休」と名付けられました。「漏(ろ)」は「流れ出る」という心の状態を表します。目の前の対象物に心を奪われ、物事に執(とら)われた心になると我欲(がよく)が漏れ出るという事です。欲は苦しみの原因になります。「漏」とはつまり煩悩(ぼんのう)の事です。
煩悩とは身心を乱し狂わせ、悩み苦しみを生みだす心の働きです。煩悩であふれたこの世界を「有漏路」と言い、煩悩が全て尽きた世界を「無漏路」と言います。「有漏路」が悩み苦しみの世界であり、「無漏路」が悟りの境地です。煩悩に惑わされ、どうしてよいのか分からず、あちらこちらに動き回る様子を「有漏(うろ)」と言います。そこからウロウロするという言葉が出来たと言われます。
人間世界で生活する限り、煩悩を断ち切るのは難しい事です。ウロウロする我が身です。
法然上人は、その様な私たち人間の心のあり方を見つめられ次の言葉を遺されました。

 

 「私たちの心は物事を見聞きするにつれて移り易いのです。たとえば猿が枝から枝へと渡っていくようなものです。本当に散乱して動き易く、心を静める事は難しいのです。煩悩に染まらない正しい智慧<無漏の正智(しょうち)>が、どうして起こるでしょうか。もし煩悩に染まらない智恵の剣がなければ、どうして悪業や煩悩というきずなを断ち切る事ができるでしょうか。もし悪業や煩悩というきずなを断ち切らなければ、どうして迷いの境涯に縛り付けられている身を逃れる事ができるでしょうか。本当に悲しい事です。本当にどうしたらよいのでしょうか」

 

 法然上人でさえ煩悩のきずなを断ち切る事は無理だと嘆かれたのです。その後、法然上人はたくさんの仏典と向き合われていかれました。そして、我が身を我が力で正すのではなく、阿弥陀仏という仏様の力によって救っていただける道を紐解かれたのです。それはただ口に「南無阿弥陀佛」と阿弥陀様の名前を呼ぶだけで良いという他力本願の御教えです。全てを阿弥陀様にお任せし、我が身のままでいいのです。今のこの世は次の世、来世に往くほんの一休みの間です。雨が降ろうと、風が吹こうと恐れず慌てずあるがままの自分でいいのです。
「あわてない、あわてない。ひと休み、ひと休み」と休みながらゆっくり自分のペースで
「南無阿弥陀佛」とお念仏を申し、阿弥陀様に全てをお任せして今を歩んで参りましょう。