和尚のひとりごと№1219「聖光上人御法語後遍二十六」

和尚のひとりごと№1219「聖光上人御法語後遍二十六」

先師の云く、経論(きょうろん)の中に六念八念九念を明かすと云えども、我が如くはただ念死念仏(ねんしねんぶつ)の二念(にねん)にありと、教示(きょうじ)せられ候いき。 此の一言千念(いちごんせんねん)よりも重し。実(まこと)に此の二念を常に思わんに過ぎたる事あるべからず。
念死(ねんし)というは終(つい)に遁(まぬが)れぬ死を思いて、出(いず)る息、入らんことを馮(たの)まざるなり。
念仏と云うは仏の御力(おんちから)と馮(たの)もしきを思い出(いで)て最後の引接(いんじょう)を待つべきなり。
北芒(ほくぼう)の露の何(いづ)れの日か消えん、西土(さいど)の臺(うてな)その時を期(ご)す。

 

【語句の説明】
六念や八念や九念  尊崇すべき対象を記憶し思いを寄せること。経典には種々の説かれている。

臺  極楽に往生する者の座る蓮(はす)の花の形をした台。蓮の台。

 

【現代語訳】

念死念仏(ねんしねんぶつ)

先師である聖光上人は仰っている。経典・論書(ろんじょ)の中には六念や八念や九念を顕示(けんじ)しているといえども、私にとってはただ念死・念仏の二念があるばかりである、そのように教え示されている。この一言は千念にも増して重いものである。まことこの二念を常に心に想うことより優れた事などない。
念死というのは遂に逃れ得ない自らの死を想って、今吐いた息がふたたび身の内に入ること頼りとしないことである。念仏というのは仏の本願力と仏が頼もしき存在であることを思い返し、最後臨終のときの引接を待つべきという事である。
北芒(ほくぼう)の露(つゆ)も時が来れば消え去ってゆく。西方浄土の蓮の台(うてな)、ただそれだけを心待ちにするばかりである。