和尚のひとりごとNo1100「法然上人一代記 29」

29.証空上人

のちに西山流(せいざんりゅう)の派祖となった善慧房証空(ぜんねぼうしょうくう)は、7人の入室弟子のひとりにも数えられ、長く法然上人の側(そば)にお仕えしたことで知られています。9歳のとき内大臣久我通親(ないだいじんくがみちちか)の養子となり、14歳で法然門下に身を投じました。住まいは東山吉水庵のそば小坂にあり、22歳のときには安楽房遵西(あんらくぼうじゅんさい)、真観房感西(しんかんぼうかんさい)と共に『選択集』の製作に携わり、経釈の要文を検出する勘文(かんもん)の役を勤めました。
建永(けんえい)の法難や嘉禄(かろく)の法難時に連座し流罪されかかりましたが逃れ、他の門弟たちがことごとく京都から追放の憂き目に遭う中、独り孤累(こるい)を守って京の都で念仏の法灯をつなぎました。
一度見聞すればすべてを理解してしまうとまで謳われた秀才であり、法然上人からは円頓戒を相伝し、師の推挙により天台や密教も学ぶ中で、最終的には地力を交えない純粋に他力の念仏を「白木(しらき)の念仏」と呼んで称揚するようになりました。
宝治元年(一二四七)、白河遣迎院(けんこういん)にて71歳でその生涯を閉じたと伝えられます。