和尚のひとりごと№1216「聖光上人御法語後遍二十三」

和尚のひとりごと№1216「聖光上人御法語後遍二十三」

問うて曰く、この文(もん)の初めに念仏と言うは何らの義ぞやと問うて、答に不離仏(ふりぶつ)の義なり値遇仏(ちぐうぶつ)の義なりと言うて、此の二義(にぎ)を以て念仏の義を答え畢(おわ)んぬ。然るに今此の如き等の問答は、偏に是れ菩薩浄仏国土(ぼさつじょうぶっこくど)・成就衆生(じょうじゅしゅじょう)の義なり。 未(いま)だ念仏の義を顕(あら)わさず、如何(いかん)。
答えて曰く、今この造書(ぞうしょ)の意趣(いしゅ)、浄仏国土・成就衆生の義を問答することは、念仏三昧(ねんぶつざんまい)の至極甚深(しごくじんじん)の義(ぎ)を顕(あら)わさんが為め也。所以(ゆえ)は何となれば、菩薩(ぼさつ)は仏に遇(あ)わずんば、浄仏国土の行(ぎょう)を知らず。 菩薩、常に仏に値(あ)うが故に能(よ)く浄仏国土の行を知る。 仏を離れざるが故に、仏を忘れざるなり。 仏に値遇するが故に、常に仏を念ずるなり。是の故に菩薩の浄仏国土の行を以て、甚深の念仏三昧と名づくる也。

 

不離仏(ふりぶつ)・値遇仏(ちぐうぶつ)と浄仏国土(じょうぶっこくど)

問うていわく、この文の冒頭において念仏というものはどのような教えかと問うたとき、答えるに不離仏の教えであり、知遇仏の教えであると言って、この二つの義をもって念仏の意義を回答し終えている。しかしながらこのような議論は、ただ菩薩による仏国土を浄め、衆生を成就させるという義に留まり、これでは未だ念仏の意義が十分に顕されていない、いかがであるか。
答えていわく、今、この書を著(あら)わさんとした意図、すなわち浄仏国土、成就衆生の義について問答するのは、念仏三昧の究極の深い義を顕(あきら)かにせんが為である。何故ならば菩薩が仏に遭(あ)い対面することなくしては、浄仏国土建立の行を知る事はできない。菩薩が、常に仏と対面しているからこそ、浄仏国土建立の行を知ることを得る。仏から遠ざかることがないから、仏を忘れることもない。仏に知遇しているから、常に仏を念ずることになる。この故に菩薩の浄仏国土建立の行をもって、まことに深き念仏三昧と名づけるのである。