和尚のひとりごと№1213「聖光上人御法語後遍二十」

和尚のひとりごと№1213「聖光上人御法語後遍二十」

口称名号(くしょうみょうごう)の念仏行者(ぎょうじゃ)の所期(しょご)は、見仏三味(けんぶつざんまい)を以て所期(しょご)とすべし。その故は口称念仏の成就(じょうじゅ)不成就(ふじょうじゅ)は三味発得(さんまいほつとく)を以て現身(げんしん)念仏の成就と云う。成就とは見仏なり。
之に依りて別時(べつじ)念仏と云うは、南無阿弥陀佛と云う称名(しょうみょう)は是れ行なり。弥陀の本願なり。仏の三十二相の姿を現(あらわ)し給うことは、行者の志、念ずる処(ところ)の所期なり。 行者現身に三昧発得して証(しょう)を取らんが為めに、七日(しちにち)の別時念仏を始め、不浄(hじょう)をとどめ散乱(さんらん)をやめて清浄の心に住し、入定(にゅうじょう)の方軌(ほうき)を以て、心に思う所は余念(よねん)なく見仏・見仏せんとなり。 口には余言(よごん)なく南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛なり。

 

念仏行者の所期は見仏三昧

口称念仏の行者が目的とするところは、見仏三昧をもって目的とするべきである。何故かと言うと、口称念仏が成就したか否かは三昧発得、すなわちこの身のままで念仏を成就したかどうかにかかっているのであるから。成就とは見仏のことである。
このことにより別時念仏という時、南無阿弥陀佛と称名することがすなわち為すべき行となる。これは弥陀の本願である。三十二相を具えた御仏がその姿を顕現されることは、行者が志し、念じるところの目的である。
行者がこの身のままにて三昧発得し、その証を自らのものとする為には、七日間の別時念仏を開始し、不浄を離れて心の散乱を静め、清浄なる心もちを保ちながら、禅定に入る方法に則って、心には他の事柄を交えずにひたすらに仏を見奉らん、仏を見奉らんとしなさい。そして口では他の事柄を交えずにひたすらに南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛と称えることだ。