和尚のひとりごと№1211「聖光上人御法語後遍十八」

和尚のひとりごと№1211「聖光上人御法語後遍十八」

 

善導和尚(ぜんどうかしょう)の御意(みこころ)は、定散(じょうさん)ともに見仏(けんぶつ)を以て行者(ぎょうじゃ)の所期(しょご)と為す。但し行に遅速(ちそく)あり。散心念仏専修(さんじんねんぶつせんじゅ)の行は遅く仏を見たてまつるが故に、疾(と)く見(み)ん料(りょう)にゆかしき故に此れを用うるなり。然(し)か云(い)うて、散心の念仏は見仏の望みを絶(ぜつ)するには非ず。散心の行も南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛と口称(くしょう)の一行、これを励む間、総想(そうそう)に見仏の想いあるが故に、行もし成就(じょうじゅ)すれば必ず仏を見奉るなり。行(ぎょう)を以て心(しん)を勧むる意(い)なり。念念(ねんねん)に見仏の想いを成すは、是れ心を以て行を勧むるなり。
総じて何れの行も、行を以て心を勧め、心を以て行を勧むるなり。

定散ともに見仏

善導和尚のお考えでは定善(じょうぜん)・散善(さんぜん)のすべてが見仏をもって行者の目的となしている。ただし修行の進み具合には遅いときもあれば早いときもある。心散じた状態でひたすらに念仏を修める修行は比較的遅く見仏へと至るが故に、より早く仏を見奉らんと望むが故にこの見仏への想いを用いるのである。
このように説くからといって、心散じた念仏は見仏を望みえないのかというとそのような事は決してない。散心の修行といえども、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛と口で称える一行、これを懸命に行ずる間のすべての想いに見仏を望む想いがあるが故に、その修行が成就したあかつきには必ず御仏を見奉ることになる。これこそが修行によって心を励まし進めるという事なのである。
一念一念の中に見仏の想いを込めている、これこそが心によって修行を励まし進めるという事なのである。つまりはいかなる修行においても、修行が心を勧め、心が修行を勧めるものなのである。