和尚のひとりごと№1181「聖光上人御法語前遍十九」

和尚のひとりごと№1181「聖光上人御法語前遍十九」

問う。善導の疏(しょ)の如き三心(さんじん)とは至誠心(しじょうしん)・深心(じんしん)・迴向発願心等(えこうほつがんしんとう)と委(くわ)しく以(もっ)て之を釈(しゃく)す。もし爾(しか)らば有智(うち)の人は之を知るべし。 無智(むち)の倫(ともがら)は之を知らず。もし知らずんば三心を具(ぐ)すべからず。 三心を具せずんば往生を得べからず。いかん。答う。師の云(いわ)く善導和尚(ぜんどうかしょう)の意(こころ)は、決定往生の信心(しんじん)を発(おこ)して、一向専修(いっこうせんじゅ)の念仏を行じ、偏(ひとえ)に臨終正念(りんじゅうしょうねん)を期(ご)して退転懈怠(たいてんけだい)無き者は自然(じねん)に三心を具するなり。経文釈文(きょうもんしゃくもん)の意(こころ)この趣(おもむき)を出でず。 然れば則ち善導所立(ぜんどうしょりゅう)の一向専修は広大慈悲(こうだいじひ)の支度(したく)を構(かまえ)え、正義正理(しょうぎしょうり)の方便(ほうべん)を設け、末代愚鈍(まつだいぐどん)の衆生に与えたまえる決定往生(けつじょうおうじょう)の要法(ようぼう)なり。

 

三心の具・不具

ここに問う。善導大師の『観経疏(かんぎょうしょ)』によれば「三心(さんじん)とは至誠心(しじょうしん)・深(じん)心(しん)・回向発願心(えこうほつがんしん)であるとして詳細に注釈されている。もしそうであるならば智慧ある学者はこれを理解できても、智慧のない者たちはこれを理解できない。もし理解できなければ三心を具えることはできない。三心を具えられなければ往生することはできない。如何(いかが)なものであるか。
答えよう。師が仰(おっしゃ)るには「善導大師の意図されるところは、必ず往生するのだという信心を起こして、ひたすらに念仏一行のみを修め、頑(かたく)ななまでに臨終のときの正念を願い、退くことなく怠けることもない者は自ずと三心を具えるに至るのである」と。
経に説かれるところ、善導大師の釈するところはこの趣旨より外れるものではない。
だからこそ善導大師が打ち立てられた一向専修(いっこうせんじゅ)の教示は、広大なる慈悲を準備し、仏法の正しい教えとことわりへと導く方図(ほうず)を設け、末代の愚かな衆生に与えて下さっている必ず往生できる最も尊重すべき法門なのである。