和尚のひとりごと№1175「聖光上人御法語前遍十四」

和尚のひとりごと№1175「聖光上人御法語前遍十四」

大般若経(だいはんにゃきょう)・仁王経等(にんのうきょうとう)を読み奉(たてまつ)りて、世の常の人は是れ世の中の殃(わざわ)い至らん事をも防ぎ、幸いならん事と思いて、後(のち)を祈る。 後世(ごせ)のためにはよむ人更に無き事なり。熊野(くまの)へ参詣し、三所(さんじょ)へ参る人も大様(おうよう)は現世安穏(げんせあんのん)の悦(よろこ)びを賜(たま)うらんと祈れども、後世菩提(ぼだい)を祈る人は甚(はなは)だ希(まれ)なり。
また念仏申せども加様(かよう)に願わば往生はしそこないつべきなり。いわゆる我が此の申し候念仏を以て阿弥陀仏、福をも賜い御座(おわしま)せ、また命をも延(の)べさせ給え、幸(しあわせ)をもあらせ給えと願い志して、加様に廻向せば往生し損(そこな)いつべきなり。されば第三の廻向発願心と申すは、かく申したらん念仏の功徳(くどく)を以て、ただ一脈(ひとすじ)に臨終正念往生極楽(りんじゅうしょうねんおうじょうごくらく)と願い志せと云うを廻向発願心と云うなり。

臨終正念往生極楽(りんじゅうしょうねんおうじょうごくらく)
『大般若経(だいはんにゃきょう)』や『仁王経(にんのうきょう)』を拝読して、世の人々はこの読誦(どくじゅ)の功徳で世の禍(わざわい)がやってくるのを防ぎ、安寧(あんねい)なることを願い、そののちに後世(ごせ)を祈っている。ただ後世の為に経を読誦する人などはなきに等しい。熊野へ参詣し、熊野三所神社へお参りする人たちもたいていは、現世での安穏であることの喜びを賜(たまわ)ろうとして祈るけれども、後世の菩提証得(ぼだいしょうとく)を祈る人はまことに稀有(けう)である。
また念仏を称えようとも、もしこのように現世の安穏を願うのであれば、往生しそこなう事もあるだろう。いわば「私がこのように申す念仏によって阿弥陀仏よ、幸福を授けたまえ、また我が寿命を延ばしたまえ、幸をもたらしたまえ」といった願いをこころざして、このように念仏するようであれば往生しそこなうかも知れないのである。
であれば第三の廻向発願心という意味は、このように称えるところの念仏の功徳をもって、ただひたすら純粋に臨終の際の正念とそれによる極楽への往生を願いこころざせという事をすなわち廻向発願心というのである。

『大般若経(だいはんにゃきょう)』
唐玄奘訳『大般若波羅蜜多経』(だいはんにゃはらみったきょう)。空・発菩提心・六波羅蜜の教義を説く。

『仁王経(にんのうきょう)』
唐不空訳『仁王護国般若波羅蜜多経』(にんのうちんこくはんにゃはらみったきょう)。般若波羅蜜の受持による国家安泰を説く。鎮護国家の三部経のひとつ。

信白山白旗院 本誓寺境内                                    「大紹正宗國師(聖光上人)御旧跡」の石碑。