和尚のひとりごと№1167「聖光上人御法語前遍六」

和尚のひとりごと№1167「聖光上人御法語前遍六」

 

天台の学者円鏡房(えんきょうぼう)、円蔵房(えんぞうぼう)、巻柱(かんちゅう)の豎者(じゅしゃ)、専修(せんじゅ)の行を訪(と)う。 先師(せんし)、三箇国(さんかこく)修行の時、彼の学者等(がくしゃら)に対して教えて云(い)う、善導所釈(ぜんどうしょしゃく)の文字一つに習い入るなり。謂(い)わく順彼仏願故(じゅんぴぶつがんこ)の故(こ)の字是(こ)れなり。 念仏には順彼仏願故あり、これを翻(ほん)するに余行(よぎょう)には仏願に順(じゅん)ぜざるの故(ゆえ)あり。 乃至(ないし)、光明(こうみょう)の摂不摂(しょうふしょう)、化仏(けぶつ)の讃不讃(さんふさん)、付属の有無(うむ)、証誠(しょうじょう)の有無等(うむとう)、皆これ仏願に順ずると順ざるとの差別なりと説かるる時、三人みな一帰(いっき)して毎日六万遍(べん)の念仏を請(しょう)じ奉り畢(おわ)んぬと。

 

天台の学者である円鏡房(えんきょうぼう)、円蔵房(えんぞうぼう)、巻柱(かんちゅう)の豎者(じゅしゃ)が専修念仏の実践について問いただしにやってきた。先師聖光上人は、三国を経めぐって修行されていた際、これらの学者たちに教示された。
「善導大師が注釈された一文字にその意は集約されている。すなわち順彼仏願故(じゅんぴぶつがんこ)の中の「故」の一文字これである。念仏には「仏の願に準ずるが故」との義があり、これより翻って他の実践行は仏の願に準じていないということになる。
さらに言えば、仏の光明が行者を摂取するだろうか、化仏が行者を称賛するだろうか、釈尊が付属されているか、諸仏が教えの正しさを証明されているか等、これらを分けるのも皆、阿弥陀仏の願に準じているか、いないかによるのである」と。
これを聞いた時、三名は皆一様に弥陀仏に帰依し、毎日六万遍の念仏を称えることを誓うに至ったとのことである。

永禅寺 「腰掛け石」