五重相伝の流れ その1

「初重(しょじゅう)」の相伝

五重相伝には、さまざまな歴史的変遷がありました。
時には在家信者(檀信徒)に対する五重それ自体が禁止となった時期もありました。
しかしながらこの五重相伝が、現在まで連綿と伝えられているのは、法然上人の御教えを信じ、心の支えとしてきた皆さまの強い思いがあってからこそであると考えられます。
それは元祖上人の念仏の教えをまなび、体験し、自らの糧としたい、
さらには残された半生において、御仏(みほとけ)の御光(みひかり)に照らされた晴れやかなる白道(びゃくどう)を歩みたいとの切なる欣いだったように思えてなりません。

さてこれからは、初重より第五重に至る五重相伝のじっさいに即してその流れをご紹介して参りたいと思います。

「初重」は、浄土宗の御教えを私たちに開示された元祖法然上人に帰せられる『往生記(おうじょうき)』により伝えられます。
「往生」とは「往(ゆ)き、生まれる」こと、臨終ののち、再び苦悩多き三界(さんがい)へ戻ってくることなく、仏まします西方極楽浄土にて新たな生を受けることであります。
そして『往生記』は「往生浄土の機を明か」すことを目的に著されたと伝えられています。

初重では「機」の相伝がなされます。
「機」とは、一般には仏教の教えを受ける私たち衆生(有情)のことであり、またそれぞれの衆生の素質や資質を指しています。

まずは、勧誡師(かんかいし)により浄土宗の正しい信仰を全うするにあたり求められる人柄(機)について説示されます。
”教えに対する疑いの心、なまけ心(懈怠、けだい)、高慢の心を離れ、自己過信に陥るべきではないこと”
そして皆さんご自身がどのような人間であるのかについて深く反省して頂きます。

一、人として恥ずかしくない行動や学びを行っているだろうか
一、釈尊の御教え(仏教)に対する理解は十分だろうか
一、人としての正しき道を守り、日々過ごしているだろうか
一、仮に罪悪をなしてしまった時、直ちにそれを反省する心を持てているだろうか
そして最終的には、これらの徳目を何一つとして十分には行えていない自身の姿を思い、愚痴愚鈍(ぐちぐどん、愚かで劣っていること)の身となり、虚心坦懐(きょしんたんかい、とらわれの心を持たない心境)において、 ただひたすらにお念仏を申すべきことが伝えられます。

これは元祖上人が仰っている「阿弥陀ほとけ、我を助け給え(『常に仰せられける御詞』)」の心境に他なりません。
法然上人の御遺訓『一枚起請文』は次のように結ばれます。

「念仏を信(しん)ぜん人は、たとい一代(いちだい)の法(ほう)をよくよく学がくすとも、一文不知(いちもんふち)の愚鈍(ぐどん)の身(み)になして、尼入道(あまにゅうどう)の無智(むち)のともがらに同(おな)じうして、 智者(ちしゃ)のふるまいをせずしてただ一向(いっこう)に念仏すべし。」

『一枚起請文』は、まさに元祖上人がお浄土に旅立たれる二日前、建暦二年(一二一二)正月二三日に、弟子の勢観房源智上人の請いに応えて著わされたと伝えられています。
弟子たちに対する「制誡(いさめ)」とも言われるこの『一枚起請文』には、 法然上人の教えの一番大切な部分が凝縮されているとも言われます。
その結論が「智者(ちしゃ)のふるまいをせずしてただ一向(いっこう)に念仏すべし」 これであります。
では愚者という本来の姿に帰った上で、一体どのようなプロセスを踏めば、 まことの念仏者となれるのか、まことの信仰生活を送っていけるのか、 「二重」以降、このことが次第を追って相伝されてゆきます。