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No.11 戦国武将 本多忠勝

今回は「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」との狂歌(社会風刺や皮肉、滑稽等を盛り込み五・七・五・七・七の音で構成された短歌)で賞賛された徳川四天王の一人である本多忠勝の話です。

本多忠勝は天文十七年(1548年)三河国で生まれ、幼い頃より徳川家康に仕え、桶狭間も戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣している。そして、永禄六年(1563年)の三河一向一揆では多くの本多一族が敵となる中で自らは一向宗から浄土宗に改宗して家康側に残り多くの武功を挙げた。その後も姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、関ヶ原の戦い等生涯において五十七回の合戦に参加したが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと言われています。

その並外れた武勇は織田信長をして「花実兼備の勇士」、豊臣秀吉をして「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる。」と、して勇将の引き合いに出されている。

しかしながら、関ヶ原の戦いの後は戦乱の収束により文治に優れた家臣が家康、秀忠の側近として台頭してきたため忠勝のような武功派は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられ晩年は不遇であったと言われている。