法然上人

和尚のひとりごとNo188「法然上人御法語第十五」

前篇 第15 信行双修(しんぎょうそうしゅ)gohougo
~行が心をつくる~

【原文】
「一念(いちねん)十念(じゅうねん)に往生をす」といえばとて、念仏を疎相(そそう)に申(もう)すは、信(しん)が行(ぎょう)を妨(さまた)ぐるなり。「念々不捨者(ねんねんふしゃしゃ)」といえぱとて、一念を不定(ふじょう)に思うは、行が信を妨ぐるなり。信をば一念に生(う)まると信じ、行をば一形(いちぎょう)に励むべし。また、一念を不定に思うは、念々(ねんねん)の念仏ごとに、不信(ふしん)の念仏になるなり。その故は、阿弥陀仏は、一念に一度の往生をあて置き給(たま)える願なれば、念ごとに往生の業(ごう)となるなり。
(勅伝第21巻)dai15

【ことばの説明】
信行双修(しんぎょうそうしゅ)
信と行の双方を偏りなくともに修める事。「信」とは阿弥陀仏への信、あるいは本願力への信仰の事、そして「行」とは称名念仏の事である。
法然上人の在世時またその後継者の時代には、この信と行に関する様々な見解が生じたが、大別すれば「信」を重視する立場(安心派)と「行」を重視する立場(起行派)とに分かれる。そして前者は、たった一度でも唱えれば阿弥陀仏の本願に応えるに十分であり、信心が確立し、結果往生を果たす事ができるという立場(一念義)に近づき、後者は臨終を迎えるまでは可能な限り多くの念仏を唱えなければならないとする立場(多念義)に近づく傾向が強いとされる。しかしながら法然上人の立場はいずれとも異なるように思われる。つまりこの御法語にも示されるように、一たびの念仏で往生出来る事を信じながらも一生涯に亘って念仏を相続すべし、というのが元祖の立場である。
浄土三部経に数えられる『無量寿経』においては第十八願に「乃至十念」「乃至一念」と説かれ、「一念・十念」でも往生は可能であるという事になる。また善導大師『往生礼讃』にも「下十声一声に至るまで仏願力をもって往生する」事が可能であるとされている。

疎相(そそう)
「疎想」とも表記される。粗略なさま。またそのような心の在り様。

念々不捨者(ねんねんふしゃしゃ)
浄土宗立教開宗の文とされる次の一節「一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故」より。これは善導大師『観経疏』散善義の一文で、法然上人は大蔵経を閲覧する事三度、ようやくこの一節に出遭い専修念仏に開眼したと伝えられる。

一形(いちぎょう)
「形(ぎょう)」とは私たち人間の身体の事。「一形」とは一人の人間の一生涯、その身体が存続する間の事。

【現代語訳】
「わずかに一回や十回、念仏を唱えれば往生はできるのだ」と(経典に)説かれているからと言って、念仏をいい加減に唱えれば、(本願への)信仰が修行を妨げる事になります。(反対に)「念仏を常に相続し怠る事がない(のであれば往生が叶う)」と(善導大師によって)解釈されているからといって、「一回の念仏では往生は確かなものとはならない」と考えるのは、修行が信仰を妨げている事になってしまいます。(つまり)信仰の面では「一回の念仏で往生を遂げられる」と信じながら、修行実践の面では、一生涯に亘って(念仏の)行に励むべきなのです。
また、「一念(一回の念仏)では往生は定まらない」と考えるならば、(その結果として)一声一声の念仏が、その度ごとに「不信の念仏」となってしまいます。何故ならば、阿弥陀仏(のたてられた本願)によれば、一念ごとに一度の往生を割り当てられた願いなのであり、(つまり)念仏を行うたびにそれが往生の為の行いとなっていくからです。

法然上人の立場では「安心」と「起行」をともに具足してこそ往生が叶う。この御法語には法然上人の人間観が示されていると考える。確かに確固とした「信」を確立し、それを根拠とした念仏「行」を実践すれば、一遍ないし十遍の念仏で往生は確かなものとなるであろう。しかしながら私たち凡夫にとり、「信ずる事」加えて何よりもその「信ずる事」を持続する事が如何に困難であることか。だからこそ「行」により自らを励まし、「信」を深める事が何よりも大切なのである。
末世の凡夫に仏が残された道、私たちが仏道の歩みを弛まぬものとする事ができる唯一の道、
それこそが易行道としての「念仏」ではないだろうか?
合掌

和尚のひとりごとNo185「法然上人御法語第十四」

前篇 第14 専修念佛(せんじゅねんぶつ)

~ただ生まれつきのままの身にて念佛せよ~gohougo

 

【原文】

本願の念佛には、独り立ちをせさせて、助(すけ)を差(さ)さぬなり。助というは、智慧をも助に差し、持戒(じかい)をも助に差し、道心(どうしん)をも助に差し、慈悲をも助に差すなり。

善人は善人ながら念佛し、悪人は悪人ながら念佛して、ただ生まれつきのままにて念佛する人を、念佛に助差さぬとは云(い)うなり。

さりながら、悪を改め、善人となりて念佛せん人は、佛の御心(みこころ)に適(かな)うべし。

適わぬもの故に、「とあらん、かからん」と思いて、決定心(けつじょうしん)起こらぬ人は、往生不定(ふじょう)の人なるべし。

(勅伝第21巻)

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【ことばの説明】

専修念佛(せんじゅねんぶつ)

阿弥陀佛の浄土へ往生を遂げる手段として、他の行を交えずに、専ら念佛のみを修めること。特に口に出して「南無阿弥陀佛」と称える事(称名念佛、口称念佛)を最も重視した法然上人門下の宗教的立場を表現する言葉。

 

智慧

インドの原語の智(jñāna ジュニャーナ)と慧(prajñā プラジュニャー)はほぼ同義であり、法(ものごと)を分析・弁別し、それが何ものであるか判断しようとする心の働きのこと。佛道修行に不可欠とされてきた三学(持戒・禅定・智慧)の一つに数えられるが、浄土門においては三学非器の自覚(凡夫であることの自覚)を前提に、阿弥陀佛の本願に頼り、念佛により往生を果たすことが目指される。

 

持戒(じかい)

戒をたもつことによって、悪しき行いを謹み、善き行いを習慣づける事。「戒」の原語はśīla(シーラ)で、本来は性格、傾向、習慣を意味する言葉だったが、次第に繰り返し行われる善なる行為すなわち「道徳的な生活習慣」を意味するようになった。

「持戒」は三学の筆頭に数えられ、生涯にわたって円頓戒(えんどんかい)の遵奉者(じゅんぽうしゃ)として持戒堅固(じかいけんご)な生活を貫いた法然上人によれば「戒はこれ佛法の大地」であるという。これは念佛者の中に破戒無慚(はかいむざん)に走る者たちがおり、それを戒めたものだと考えられる。その一方、極楽への往生の要件としては持戒は必ずしも求められておらず、念佛の一行のみが往生の要件である事が繰り返し強調されている。それは佛の慈悲が一切衆生(あらゆる機根の者)を救わんとする平等性に基づくものだからである。

 

道心(どうしん)

道心とは菩提心の事。菩提心(bodhi-citta ボーディチッタ)とは、菩提すなわち悟りを求め、体得したいと願う心で、佛道を志す者が必ず備えなければならない心であるとされるが、法然上人によればこの「菩提心」は往生のための必要条件ではない。往生の為の行としては、念佛が最も優れており、菩提心を始めとする諸行は念佛を支える助業としての役割を担うものでしかない。

 

慈悲

「慈」(maitrī マイトリー)と「悲」(karuṇā カルナ―)を合わせて「慈悲」という。「慈」とは「有情に楽を与えること」であるが、本来の意味は一切の衆生に対して抱く友愛(友情)を意味した。「悲」とは「有情の苦を抜くこと」であるが、本来の意味は「悲しみを共有すること」すなわち同情や共感を意味していた。

佛・菩薩の属性として強調されがちな「慈悲」であるが、初期佛教において既に「四無量心(しむりょうしん)」としてこの「慈」と「悲」が数えられている。この四無量心は出家の修行徳目として、観察の対象とすべき「四つの量りしれない利他の心」を意味している。やがて大乗佛教に到ると「慈悲」は菩薩の必ず具えるべき徳性とされ、特に救済の根拠としての性格が際立つようになっていった。『観無量寿経』には「佛心とは大慈悲これなり」とあり、阿弥陀佛の慈悲の広大さ、遍満性が強調されている。

 

決定心(けつじょうしん)

「決定」とは定まり動揺することのない状態、つまり「決定心」とは、阿弥陀佛へ信に基づき、間違いなくその浄土へ往生する事が出来ると確信する心を意味している。

 

【現代語訳】

本願の念佛はそれ自身として独立させて、(他の行の)助けをあえて差しはさむ事は致しません。(ここでいう)「助け」というのは、「智慧」(という行)を(念佛の)助けとする事、「持戒」を以て(念佛の)助けとする事、「菩提心」を以て(念佛の)助けとする事、あるいは「慈悲の心」を以て(念佛の)助けとして差しはさむという事です。

善人であれば善人であるがままに念佛し、(あるいは)悪人であれば悪人であるがままに念佛して、(つまり)ただただ生まれつきのそのままの在り様で念佛する人を、念佛の助けを差しはさまない人であると呼ぶのです。

それにも関わらず、(今までの)悪を悔い改めて、善人となって念佛を行おうとする者がいたとすれば、それは(それできっと)御佛の御心に適うものとなりましょう。

(ただし上の例を取り違えて)御佛の御心に見合わない自分自身であるとの思いから「ああだろう、こうだろう」と心を悩ませて、(その結果、佛の言葉の通りに)「必ず往生できるのだ」との思いが起らない人は(即ち)往生が確実ではない人となってしまうのです。

 

 

「ただ生まれつきのままにて念佛する人を、念佛に助差さぬとは云うなり」

「さりながら、悪を改め、善人となりて念佛せん人は、佛の御心に適うべし」

ただ生まれつきのままで念佛できるのであれば、何も思い煩う必要はないとする一方で、悪を悔い、善人となることを志した上で、念佛を行おうとするのであればそれは御佛の御心に適うものであるとのされる。

一見矛盾しているようであるし、時に両義的な表現をされるのが元祖上人なのではないだろうか?それぞれの言葉があたかも自分自身に向けられた如く感じ、念佛の道に入っていける、そのような力をこれらの言葉は持っていると思う。

最も大切なことは、決定往生の人となること、そしてそれは同時に決定往生の心を持てるということなのだろう。念佛為先、信こそが安心を生むが、その信は念佛一行により育てられるのである。

合掌

和尚のほとりごとNo182「法然上人御法語第十三」

第十三 二行得失(にぎょうとくしつ)gohougo

~念仏は仏の御心に適った唯一の道である

 【原文】

往生の行、多しといえども、大いに分かちて二つとし給(たま)えり。一つには専修(せんじゅ)、いわゆる念佛なり。二つには雑修(ざっしゅ)、いわゆる一切のもろもろの行(ぎょう)なり。上(かみ)にいう所の定散(じょうさん)等これなり。

往生礼讃(おうじょうらいさん)に云(いわ)く、「若(も)し能(よ)く上(かみ)の如(ごと)く念々相続(ねんねんそうぞく)して、畢命(ひつみょう)を期(ご)とせば、十は即ち十生じ、百は即ち百生ず」。専修と雑行(ぞうぎょう)との得失(とくしつ)なり。

得(とく)というは、往生する事を得(う)。謂(いわ)く、「念佛する者は、十は即ち十人ながら往生し、百は即ち百人ながら往生す」というこれなり。

失(しつ)というは謂わく、往生の益(やく)を失えるなり。雑行の者は、百人が中(なか)に稀に一二人(いちににん)往生する事を得て、その外(ほか)は生(しょう)ぜず。千人が中(なか)に稀に三五人(さんごにん)生まれて、その余(よ)は生まれず

専修の者は、皆生まるる事を得(う)るは、何(なに)の故ぞ。阿弥陀佛の本願に相応(そうおう)せるが故なり。釈迦如来の教えに随順(ずいじゅん)せるが故なり。雑業(ぞうごう)のものは生まるる事少なきは、何の故ぞ。弥陀の本願に違(たが)える故なり。釈迦の教えに随(したが)わざる故なり。

念佛して浄土を求(もと)むる者は、二尊(にそん)の御心(みこころ)に深く適(かな)えり。雑修(ざっしゅ)をして浄土を求(もと)むる者は、二佛(にぶつ)の御心に背(そむ)けり。

善導和尚(ぜんどうかしょう)、二行(にぎょう)の得失(とくしつ)を判(はん)ぜること、これのみにあらず。観経(かんぎょう)の疏(しょ)と申す文(ふみ)の中(うち)に、多く得失を挙げたり。繁(しげ)きが故に出(い)ださず。これをもて知るべし。

(勅伝第25巻)

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【ことばの説明】

二行得失(にぎょうとくしつ)

ここで二行とは「専修(せんじゅ)」と「雑修(ざっしゅ)」のこと。

専修すなわち念仏に専念することによる利得と、雑修すなわち念仏以外の諸々の実践を行ずることによる損失の意味。

 専修(せんじゅ)

専修は専ら一行(一つの実践)のみを修めること。つまり他の行を交えず念仏行を専らとすることを意味している。

 雑修(ざっしゅ)

阿弥陀仏の本願に誓われた念仏行以外の様々な修行法を雑行と呼び、雑修とはその雑行を修めること。

 定散(じょうさん)

『観無量寿経』に説示される定善(じょうぜん)と散善(さんぜん)のこと。定善とは、心を特定の対象に定めて修める善行のこと。善導大師の解釈では『観経』に示される十三種の観法(定善十三観)を指し、韋提希夫人(いだいけぶにん)が釈尊に致請した結果示された浄土へ往生を遂げる為の修行。散善とは、心が常に外界の事象にとらわれて散乱した状態であっても実践可能であり、浄土往生の果を得ることのできる行を指し、同じく善導大師の解釈では、懇請あってではなく釈尊自らの意志で未来世の一切の衆生を浄土へ導くために説かれた散善三福九品(さんぜんさんぷくくほん)を指しているとされる。

こうした定善/散善を含め諸々の実践法の中で、阿弥陀仏に選択された本願の行である念仏こそが、その他の諸行とはくらべものにならない程勝れている、これが法然上人の結論となる。

 念々相続(ねんねんそうぞく)

「念念相続」とは、絶え間なくひたすらに念仏を称えること、本来的には、前念と後念(直前の意識とそれに続く意識)の合間に一切の余念を交えないことを意味し、念仏行の相続が仏への意識を途絶えさせないことと同義になっている。

 畢命(ひつみょう)

生命終えるその時。

 雑行(ぞうぎょう)

雑修に同じ。念仏以外の諸行。

生(しょう)ぜず

生まれて

生まれず

ここで「生まれる」「生ずる」は、ともに浄土への往生のこと。「往生」は本来的には「生ずる、達する、転生する」を指すという。つまり、極楽浄土へ行き生まれ出ること、輪廻転生の中において六道とは異なった世界である仏の国土への生まれ変わりを果たすことを意味している。

 随順(ずいじゅん)

心から信じ従うこと。

 二尊(にそん)

釈迦仏と阿弥陀仏のこと。浄土宗の教えにおいては、浄土の教えを説き示した釈尊を西方浄土への往生を勧め、送り出すという意味で発遣教主(はっけんきょうしゅ)と呼び、浄土へ来たれと招き喚(よ)ぶ阿弥陀仏を招喚教主(しょうかんきょうしゅ)として共に尊んでいる。第二祖聖光上人によれば、道理の上から釈迦・弥陀二尊を本尊とすべきだとも言われる。いずれにしても二尊の教説が決して異ならず一致していることが肝要であり、その御心が末代の凡夫を漏れなく仏の国土に迎え入れる点にあることを忘れてはならない。

 二佛(にぶつ)

二尊に同じ。

 多く得失を挙げたり

善導大師が『往生礼讃』において列挙している専修における「四得(しとく)」と、雑修における「十三失」のこと。「四得」とは、専修念仏の実践によって得る得益のことで、仏の本願や仏の言葉に決して違わず随順すること等が挙げられ、「十三失」とは反対に諸行の雑修の実践によって、仏の本願と相応することが出来ず、教えと相違してしまう事などが挙げられている。

 

 【現代語訳】

(経典に示される)往生の為の修行は多いが、(善導大師は)2種に大別できると仰っている。その内第一は専修、すなわち念仏である。そして第二は雑種、すなわち(念仏以外の)あらゆる修行法である。(そしてこれら専修と雑種を含めた全ての修行法とは)既に述べたところの定善と散善によってカバー出来る。

(善導大師の)『往生礼讃』が記すところでは「もし、前に述べた如く念入りに、念仏を絶やすことなく持続した後に生命を全うすることが出来た場合は、十人中十人皆が往生し、百人いても百人全てが往生することになる」とある。(まさにこれが)専修(を行うこと)の得益と雑種(を行うことの)損失とを説明した件(くだり)である。

(ここで)「得益」と呼ぶところのものは、往生することを得るということである。すなわち「念仏する行者は、十人いればその十人がそのまま往生し、百人いればその百人がそのまま往生する」というこのことを指している。

(また)「損失」と呼ぶのはすなわち往生できるという得益を失ってしまうことである。雑種を行ずる者が百人いる中でも、稀に一人か二人しか往生することが出来ず、その他の(大半の)者は(ついに)往生することが出来ないと言われる。(また仮に雑種を行ずる者がさらに)千人いたとしても、その(千人の)中で、ごく稀に三人、ないし五人が往生するが、その他の(大半の)者は往生出来ないとも言われている。

(では)専修の者が皆須く(浄土に)生まれ出ることが出来るのは何故であろうか?(それは)阿弥陀仏の本願に適切に対応しているからである。(同時に)釈迦如来の教えを心より信じ、その教えに従っているからである。雑種を行ずる者が浄土に生まれる確率が低いのは何故であろうか?(それは)阿弥陀仏の本願に背いているからである。釈迦如来の教えを信じず従っていないからである。

念仏を実践して浄土を念願する者は、(一切の衆生を漏れなく救わんとする)二つの尊い仏のみこころに深く適っている。(対して)雑種を行ずることによって浄土を求める者は、二つの尊い仏のこのみこころに背いていることになる。

善導和尚が(専修と雑種の)二つの行を判別されたのは、ここで述べた内容に留まるものではない。『観経疏』という書物を著す中で、より多くの得益と損失を上げておられる。煩雑なのでここで引用することは控えるが、以上述べてきたことをもって理解して頂きたい。

 

 念仏すれば全ての人が往生を遂げられるというのは、法然上人の御教えを受け継ぐ私たちの信念であり、安心の拠り所であります。しかしながら八万四千の法門と言われ、あるいは大海にも喩えられる仏の教えの中には、仏国土への往生を遂げる為の実に様々な方法が説示されています。数ある阿弥陀浄土をとくに説く経典の中で、『般舟三昧(はんじゅざんまい)経』においては、仏ならびに極楽浄土の様相を深い禅定の境地において体感する観想念仏が示され、浄土三部経に数えられる『観無量寿経』には定善十三観の観法より九品散善に至るまで様々な往生人のあり方(往生に向けた実践形態)が説かれています。ではそういった諸行によって往生することは可能であるのか?

浄土宗の二祖となった聖光上人の言葉が残されています。

諸行往生称名勝(諸行は往生すれども称名勝れたり)

我閣万行選仏名(我れ万行をさしおきて佛名を選ぶ)

往生浄土見尊体(浄土に往生して尊体を見たてまつる)

仏の御心はどこにあるのか?それは万人に開かれた道を示すことでありましょう。仏の本願に誓われ、その本願に適合する念仏を、仏の言葉そのままに慮りなく受け取り相続すること、このことこそが私たちの目の前に開かれた道であり光明である。そのような気がしてなりません。

合掌

No179「法然上人御法語第十二」

第12 正雑二行(しょうぞうにぎょう)gohougo
~生死を超える最速の道~

【原文】
それ速(すみ)やかに生死(しょうじ)を離(はな)れんと欲(おも)わば、二種(にしゅ)の勝法(しょうぼう)の中(うち)に、且(しばら)く聖道門(しょうどうもん)を閣(さしお)きて、選びて浄土門(じょうどもん)に入(い)れ。
浄土門(じょうどもん)に入(い)らんと欲(おも)わば、正雑(しょうぞう)二行(にぎょう)の中(うち)に、且(しばら)くもろもろの雑行(ぞうぎょう)を抛(なげす)てて、選びて正行(しょうぎょう)に帰(き)すべし。
正行(しょうぎょう)を修(しゅ)せんと欲(おも)わば、正助(しょうじょ)二業(にごう)の中(うち)に、なお助業(じょごう)を傍(かたわ)らにして、選びて正定(しょうじょう)を専(もは)らにすべし。正定(しょうじょう)の業(ごう)というは、即ち是れ、佛(ほとけ)の御名(みな)を称(しょう)するなり。名(な)を称(しょう)すれば、必ず生(う)まるることを得(う)。佛の本願に依るが故に。
(勅伝第18巻)

【ことばの説明】
聖道門(しょうどうもん)
自らの力(自力)によって修行の最終目的である仏果(覚り)を求めようとする立場。

浄土門(じょうどもん)
仏の力に頼って浄土への往生を目指そうとする立場。特に阿弥陀仏の本願力に乗じて、彼の仏の建てた浄土である西方極楽浄土への往生を目指す法門を指している。

雑行(ぞうぎょう)
正行(しょうぎょう)
正行とは中国の善導大師が『観経疏』散善義において明示したところの、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれることができる五つの行法である五種正行(ごしゅしょうぎょう)のことで、読誦(どくじゅ)・観察(かんざつ)・礼拝(らいはい)・称名(しょうみょう)・讃歎供養(さんだんくよう)を言う。いずれも阿弥陀仏に深く関わり、阿弥陀仏を中心とした行法である。それに対してこの五種正行に含まれない全ての行法(仏教のあらゆる修行法)は雑行として区別されている。

助業(じょごう)
正定(しょうじょう)の業(ごう)
上記の五種正行のうちで、第四に数えられる「称名正行(しょうみょうしょうぎょう)」こそが、仏の本願に保障された往生する事が確実な行として「正定業(しょうじょうごう)」と名付けられる。それ以外の「読誦・観察・礼拝・讃歎供養」は、「正定業」である「称名」の実践を助けるという位置づけで「助業(じょごう)」と呼ばれた。
法然上人の選択集には次のように記される。
「一には正業、二には助業なり。初めに正業とは、上の五種の中の第四の称名を以て正定の業とす」
つまり、五種正行は正業と助業に分かれ、第四の称名こそが正業である。そしてそれ以外の四種は助業に分類される。その根拠として示される善導大師『観経疏』の次の一節は、浄土宗開宗の文として重視されるものである。
「すなわち文に、〈一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、これを正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に〉と云えるこれなり」
以上のように「正定業」である「称名」こそが確実に往生できる行いであるが、同じく阿弥陀仏に親近であり、弥陀の浄土への往生を目的としている他の四つの「助業」のみの実践で往生は可能であろうか?これについては善導大師の著作では明確でない点があり、法然上人がそれを認めていたかについても意見が分かれるところである。

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【現代語訳】
さて、一刻も早くこの迷いの生存から離れたいと切に願う者は、(全ての)勝れた仏法の教えが二種に大別される中で、ひとまずは聖道門を差し置いて、浄土門に入る事を選びなさい。
(そのようにして)浄土門へ入ろうと願うならば、(その浄土門の実践法が二種に大別されるところの)正行と雑行の二つの行法の中で、ひとまずは雑行には関わらずに、正行を拠り所として信頼を寄せなさい。
(そのようにして)正行を修めたいと願うならば、(正行が二種に大別されるところの)正助二業の中で、やはり助業(補助的な実践)を傍らに置き、正定業(往生が定まった実践)のみをひたすら行う道を選びなさい。正定の業とは、すなわち仏(阿弥陀仏)のお名前を称えることであります。(彼の仏の)御名を称えれば、必ず(極楽浄土に)生まれる事ができます。(それは)阿弥陀仏の本願によるからです。


速やかに迷いの境涯から離れること、これこそが仏教が目指してきた最終目標である。
彼の釈尊は、この娑婆世界のただ中にて縁起という卓越した認識を得、苦悩の根本が真理を見通せない無明(無知)にあることを覚り、仏陀(覚者)となって輪廻を終息させた。長らくこの道(聖道門)こそが、迷いの境涯を脱する唯一の方法だと考えられてきた。しかしながら末世に生きる私たちに阿弥陀仏が示したもう一つの道がある。極楽浄土への往生によって六道輪廻のサイクルから離れる浄土門の教えである。
この御法語では法然上人によって、末世に生きる私たちが生死輪廻から速やかに脱するための道の選択が示されている。解脱するにはどうすればよいのか?これに対する答えは真に簡明である。
八万千千にも喩えられる多くの教えの中で、まずは仏の本願により往生を遂げられる道(浄土門)を選べ、そしてその中でも他ならぬ阿弥陀仏御自身によって誓われた道、すなわち仏によって往生が保証された念仏の道をひたすら実践せよ。
まさに望めばすでに道は示されているのである。
合掌

 

法然上人御法語第十壱

第11 深心(じんしん)gohougo

~深く信ずることこそが~

 

【原文】
ただ心の善悪(ぜんなく)をも顧(かえり)みず、罪(つみ)の軽(かろ)き重きをも沙汰(さた)せず、心(こころ)に「往生(おうじょう)せん」と欲(おも)いて、口(くち)に南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)と称(とな)えては、声(こえ)につきて決定(けつじょう)往生(おうじょう)の思(おも)いをなすべし。
その決定心(けつじょうしん)によりてすなわち往生(おうじょう)の業(ごう)は定まるなり。かく心得(こころえ)ねば、往生(おうじょう)は不定(ふじょう)なり。往生(おうじょう)は、不定(ふじょう)と思えばやがて不定(ふじょう)なり。一定(いちじょう)と思えば一定(いちじょう)する事にて候(そうろ)うなり。
されば詮(せん)は、ふかく信(しん)ずる心と申し候(そうろ)うは、「南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)と申せば、その佛(ほとけ)の誓(ちか)いにて、いかなる身(み)をも嫌わず、一定(いちじょう)迎え給(たま)うぞ」と、深く頼みて、いかなるとがをも顧ず、疑う心(こころ)の少しもなきを申し候うなり。
(勅伝第二十二巻)


【ことばの説明】
沙汰(さた)せず
問題としない、不問に付す。

往生(おうじょう)の業(ごう)は定まるなり
念仏という行為が因となって、往生という果(報い)を生むことが確実である事。これも因果の道理に基づいている。

一定(いちじょう)
間違いなく定まっている。「決定(けつじょう)」に同じ。

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【現代語訳】
ひたすら(自らの)心の善悪を振り返って思いめぐらす必要はない。また(自ら犯した)罪の軽き重きなどについても問題とする必要もない。心には「往生したい」との思いを抱き、口では南無阿弥陀佛と称えて、口に出すひとこえひとこえに「必ず往生が叶うのだ」との願いを込めなさい。
その「往生は定まっているのだ」との思いこそが、とりもなおさず(念仏という業の報いとしての)往生を確実なものとするのです。(もし反対に)このように考えないならば、往生は不確かなものとなってしまうでしょう。往生など定まるはずがないと考えれば、その通りに往生は不確かなものとなる。定まると思えば定まるものなのです。
ですから結局は、(この)深く信ずる心(深心)というのは、「南無阿弥陀佛と申しさえすれば、(まさに)その(阿弥陀と名づく)仏の誓いによって、どのような身であっても分け隔てなく、確実に(浄土へ)迎えて下さるのである」、そのように心から頼りとして、(自分自身の犯した)どのような罪科(つみとが)についても改めて思いめぐらすことなく、(往生に対する)疑いの心が微塵もないことを言うのであります。

この法語は「深心」について述べられている。
「深心とは、すなわちふかく信ずるこころなり」(『大胡の太郎実秀へつかはす御返事(おおごのたろうさねひでへつかわすおへんじ)』)
すなわち往生の為に必要な心構えとして数えられる「三心」のうち、この「深心」は深く信ずる心である。
善導大師の釈によれば次の如くであるという。
「一つには、決定してわが身はこれ煩悩具足せる罪悪生死の凡夫なり、善根はすくなくして、曠劫(こうごう)よりこのかた、つねに流転して出離の縁なし」と信ずることであり、「二つには、かの阿弥陀仏四十八願をもて衆生を摂取し給う。すなわち名号を称する事、下十声一声(しもじっしょういっしょう)にいたるまで、かの願力に乗じて、さだめて往生することを得と信じて、乃至一念も疑う心なき故に深心と名づく(『御消息』)。
つまり「深心」とは、自分自身が煩悩を捨てきれぬ凡夫であり、善き行いも少なく、ついに今まで解脱の機縁に恵まれなかったこと、そして阿弥陀仏の名号を称えることで必ず往生を果たせることを信ずることであると。
さてこの御法語は次の一節で始まる。
「心の善悪をも顧みず、罪の軽き重きをも沙汰せず」(心の善悪について振り返り、思いめぐらすことなく、犯してしまった罪の軽重についても問題にすることなく…)
一方、伝統的に仏教は次の言葉で言い表されている。
「諸悪莫作(しょあくまくさ)衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶつきょう) (『七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)』)。あるいは「一切の罪を犯さぬこと、善に至ること、心を浄化すること」これこそが「ブッダたちの教え(=仏教)」であると表現される(『ダンマパダ』)。一言で言えば「悪をなさず善をなすこと、自らの心を浄らかなものにすること」これこそが仏教であるとされてきたのである。ところが法然上人によれば、これらについて思いめぐらし、問題視することを差し置いても、阿弥陀仏の名を称え、称えながら「必ず往生できる」という思いを抱くことこそが勧められるべきであるという。それは何故か?続く一節によって明らかとなる。
「必ず往生できる」という思いによって念仏往生が確実なものとなると。
法然上人は、必ずしも仏教において大切にされてきた「諸悪莫作・衆善奉行」の原則(自業自得の理)を軽んじ、無視しようとしたのではないだろう。次のような御言葉も残されている。
「いかなる過をも嫌わねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず(『鎌倉二位の禅尼に進ぜられし書(かまくらにいのぜんにへしんぜられししょ)』)。しかし、たとえ如何なる罪科を犯しても分け隔てなく救って下さるとは言え、その教えに乗じて罪を恐れぬ振舞いをしてはいけない。
念仏によって必ず往生できるという思いを持つこと、この最も肝要な信心を確立するにあたり、凡夫にとっては必ずや大きな妨げとなるのはこうした懸念であり、疑いの心である。これこそが往生を不確かなものとする際たる原因となる。疑いの心なき状態、信心の定まった状態であればこそ、必ず往生は定まっている。この点をあらためて示して下さっているのが本法語である。
想うに弥陀の大慈悲は、善悪による報いの連鎖(業報輪廻)から超出できる凡夫にとっては唯一の道を示している、まさにその一点にあるのではないだろうか。
合掌

 

法然上人御法語第十gohougo

第10 小消息

~善悪を超える信~

 

【原文】

末代の衆生を往生極楽の機にあてて見るに、行少なしとても疑うべからず。一念十念に足りぬべし。罪人なりとても疑うべからず。「罪根深きをも嫌わじ」との宣えり

時下れりとても疑うべからず。法滅以後の衆生、なおもて往生すべし。況や近来をや。我が身わろしとても疑うべからず。「自身はこれ、煩悩具足せる凡夫なり」との宣えり

十方に浄土多けれど、西方を願うは、十悪五逆の衆生の生まるる故なり。諸仏の中に弥陀に帰したてまつるは、三念五念に至るまで、自ら来迎し給う故なり。諸行の中に念仏を用うるは、彼の仏の本願なる故なり。今弥陀の本願に乗じて往生しなんに、願として成ぜずと云う事あるべからず。本願に乗ずることは、信心の深きによるべし。

受け難き人身を受けて、遇い難き本願に遇いて、発し難き道心を発して、離れ難き輪廻の里を離れて、生まれ難き浄土に往生せん事、悦びの中の悦びなり。

罪は十悪五逆の者も生まると信じて、少罪をも犯さじと思うべし。罪人なお生まる、況や善人をや。行は一念十念なお虚しからずと信じて、無間に修すべし。一念なお生まる、況や多念をや

阿弥陀仏は不取正覚の言を成就して、現に彼の国に在せば、定めて命終の時は来迎し給わん。釈尊は「善哉、我が教えに随いて生死を離る」と知見し給い、六方の諸仏は「悦ばしき哉、我が証誠を信じて、不退の浄土に生まる」と悦び給うらんと。

天に仰ぎ地に臥して悦ぶべし、このたび弥陀の本願に遇う事を。行住坐臥にも報ずべし、彼の仏の恩徳を。頼みても頼むべきは、「乃至十念」の詞。信じてもなお信ずべきは、「必得往生」の文なり。

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【ことばの説明】

「罪根深きをも嫌わじ」との宣えり

法照(ほっしょう)の『五会法事讃(ごえほうじさん)』より法然上人の引用

法照禅師の生没年代は詳らかではないがおおよそ七世紀半ばより八世紀半ばの人。本邦の第三代天台座主である慈覚大師(じかくだいし)円仁が入唐時、開成五年に五台山を巡礼したときの記録として「(法照禅師が)遷化よりこのかた二年」と記したのを信頼すれば開成三年(838年)寂となるという。

浄土教を研鑽するとともに般舟念仏三昧を修した実践家で、永泰二年(766年)南岳の雲峰寺にて瑞相を感じ、阿弥陀仏前にて五会念仏の唱法を授かったとされる。大暦五年(780年)には五台山に入り、竹林寺の創建などの事績を残す。

なお先の円仁は、法照の著である『浄土五会念仏略法事儀讃(じょうどごえねんぶつりゃくほうじぎさん)』とともに五台山に伝えられていた法照流の五会念仏を比叡山に将来した。この五会念仏は『無量寿経』の記述に基づき、念仏を唱える際に五段階の緩急をつけた唱法のこと。この五会念仏の実践を中心に、経典の読誦や仏菩薩・浄土への讃嘆など十門に分類される行法で構成される一連の儀式次第を五会法事讃と呼んでいる。

五会念仏については敦煌石室からも関連写本が多数発見されていることからも、この時代(唐代)を中心とした念仏信仰の広まりをみて取ることができる。

 

近来

ちかごろ、この頃

 

「自身はこれ、煩悩具足せる凡夫なり」との宣えり

善導大師『往生礼讃』より法然上人の引用

『往生礼讃』は『六時礼讃』とも呼び唐の善導大師の集記(収集し記したもの)。内容は、極楽浄土へ往生を果たす為の具体的な行法(実践法)、ならびに一日を六時に分けて、各々で勤めるべき礼讃文を収録した書物。

一日を六時に分けるのはインド以来の伝統で、西方に日が沈む日没(にちもつ、午後四時)から始まり、初夜(しょや、午後八時)、中夜(ちゅうや、午前0時)、後夜(ごや、午前四時)、晨朝(じんじょう、午前八時)、日中(にっちゅう、正午)と続く。

また『往生礼讃』は善導大師自作の文の他に、『無量寿経』や『観経』に基づく箇所、また浄土教の祖師としての龍樹(ナーガールジュナ)作「願往生礼讃偈」や世親(ヴァスバンドゥ)の『往生論』等から多く引用されている。

 

罪人なお生まる、況や善人をや

「罪人でさえも往生できる。ましてや善人においてはなおさら(往生できるの)である」の意。

よく知られた親鸞『歎異抄』の一節は「善人なほもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」、これは「善人でさえ往生できるのだから、悪人はいうまでもない」の意となる。『一紙小消息』の「罪人」を「悪人」と言い換える事が可能ならば、『一紙小消息』と『歎異抄』では「罪人(悪人)」と「善人」の順序が逆になっている。

また両者は「罪人(悪人)」「善人」がともに阿弥陀仏の救いの対象となっているという点では同じであるが、阿弥陀仏の主たる救いの対象(阿弥陀仏が優先的に救済したい対象)が、「善人」であるのか、あるいは「罪人(悪人)」であるのか、という違いがあるように見える。さらに、罪悪の凡夫こそが救いの対象であるという考え方は、すでに中国の迦才(かざい)の『浄土論』や新羅の元暁(がんぎょう)作『遊心安楽道』に見られ、法然上人自身も間接的ではあるが、悪人こそが第一次的な救いの対象であることを認めていたのではないかとの指摘もある(醍醐本『法然上人伝記』)。

このように悪人こそまさしく阿弥陀仏の本願に救われる対象であると認める考え方を【悪人正機説】と呼ぶが、特に先に引いた親鸞『歎異抄』の言葉は、善人よりも悪人の方が往生がよりたやすいとも読むことができ、ここに師である法然上人との思想の相違を見ることができそうである。

また【悪人正機説】自体は、理論的には、造悪無礙(ぞうあくむげ)すなわち「悪をなしても決して往生のさまたげとはならない」との考えを承認することになる為に望ましいものではない、と評価されることがある。法然上人当時も念仏信仰者を論難する根拠の一つとされていた。

 

一念なお生まる、況や多念をや

一念(たった一度の念仏)でも往生できるのか?あるいは多念(数多くの念仏)が往生の正因なのか?この問題は法然上人の生前より、また滅後の門弟たちによっても議論が分かれていた。

これについて根拠をみれば、まず『無量寿経』においては、第十八願では「乃至十念」(十回念仏すれば)とある一方、その成就文には「乃至一念」(一回でも念仏すれば)とある。また善導大師も「十声一声等に至るまで(十回ないし一回の念仏でも)」(『往生礼讃』)とする一方、「念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく」(『観経疏』)とある通り、一生涯に渡って持続することこそが正しく定まった行い(正定業)であるとしている。つまり一念多念いずれも説かれている訳である。

では法然上人の立場はどうであったか?

それはひとことで言えば「一念での往生を認めながらも、実際には多念を勧める」ものであったと言える。

「信をば一念に生まると取り、行をば一形励むべし」(一念にて往生を果たせるとの信を確立しながらも、一生涯にわたって念仏に励みなさい)、それこそが元祖の立場であった。

なお一念と多念を対比させるとき、「信・行」の問題と密接に関連してくることが指摘されている。つまり信をより重視する立場は一念重視に傾き、行をより重視する立場は多念重視となる傾向が強い。法然上人の立場は、そのどちらにも偏ることはなく、またどちらかに偏ることの危うさを熟知した上でのものだったのではないだろうか?

 

命終の時は来迎し給わん

浄土宗では臨終来迎を説く。念仏の行者の生命が終わらんとするその瞬間、弥陀三尊(阿弥陀仏、観音勢至の両菩薩)や聖衆が来迎して、念仏者を正念(しょうねん)へと導き、極楽浄土に引接(いんじょう)する。これは『無量寿経』に説示される法蔵菩薩の四十八願の中の第十九願「来迎引接願(らいこういんじょうがん)」に基づく。これについて法然上人は「来迎したまうが故に臨終正念なり」と述べ、弥陀三尊並びに聖衆が来迎するが故に、当の念仏者の心が安らかとなり正しく極楽浄土に向けて定まるとしている。「正念」とはもともと八正道で説かれるsammā-sati(サマーサティ)に由来するが、これは心を常に正しく留めることを意味していた。通常であれば迷い、心乱れるのが常である臨終の時、仏・菩薩の来迎があるのは、まさしく衆生を正念に導き浄土へ迎えとる為なのである。

 

「乃至十念」

『無量寿経』巻上に説かれる第十八願「乃至十念」のこと。十回でも念仏すれば往生を遂げる、すなわち往生を願って念仏を称える上でその数を限定しないことを示す語であると言われている。

 

「必得往生」

善導大師『往生礼讃』より法然上人の引用

 

 

【現代語訳】

乱れた末法の時代の衆生(である私たち)を、極楽浄土に往生を遂げられる素質や能力という面から考えてみると、

たとえ(念仏という)行いの数が少なくとも、疑ってはならなりません。(回数で考えても)一回や十回(の念仏を実践すること)で十分な筈であります。

(たとえ)罪を犯す人であっても、疑ってはなりません。(現に釈尊が)「(たとえ)罪深くとも、分け隔てすることはない」と説かれている通りです。

(教えが説かれた釈尊の時代から)時代が下っているからと言って疑ってはなりません。(今の末法がさらに過ぎたのちの)仏の教え自体が滅びてしまう(将来やってくるであろう)世界の衆生でさえ往生できるのです。(であれば)今の時代(の私たち)にそれが叶わないことなどあるでしょうか(決してそのようなことはないのです)。

自分が(煩悩を備えた)至らぬ身であるからと言って疑ってはなりません。(かの善導大師も)「私こそ煩悩を備えた凡夫である」と仰っているのですから。

十方(と呼ばれるように私たちがどの方角を見てもその先)に仏の浄土は無数に存在しますが、(今ここに)西方(極楽浄土への往生)を願う理由は、十悪・五逆と言われる大きな罪を犯した者でさえも(そこへの)往生が叶うからであります。

様々な仏さまがいる中で特に阿弥陀仏を信じすがる理由は、たった三回や五回(しか念仏を称えることが出来ずに死に臨む者)にさえも、阿弥陀仏御自身が迎えに来て下さるからです。

(往生の為の)数多くの修行の中で特に念仏を用いる理由は、(他ならぬ)阿弥陀仏の本願に誓われた実践だからです。今、阿弥陀仏の本願に身を任せて往生を願えば、その(往生したいという)願いが叶わないなどということは決してないのです。

(このように)本願に身を任せ(て往生を遂げ)るということは、信心の深さによるのであります。

(幸いにも私たちは)人として生を受けるという(誠に得難い)境遇を得、出会い難い本願(の教え)に出会い、(今までの生ではついに)起こし得なかった仏の道を求める心を起こし、(仏の本願に乗ずればその結果として)容易には離れ難い(生まれ変わりの)輪廻の境涯を離れて、生まれ難い浄土に往生することができます。(それはまさに)これ以上の悦びはないほどの悦びなのであります。

罪については、たとえ十悪・五逆を犯した者でさえも往生できると信じて、小さな罪さえも犯すものか、と(戒め)思うようにしなさい。罪を犯してしまった人でさえも往生できるのです。ましてや(罪を犯しておらず)善き行いをなす人については言うまでもありません。行については、一回や十回(という決して多くはない数)の念仏でも必ず実を結ぶものであると信じて(それこそ)絶え間なく称え続けなさい。(たった)一回の念仏でも往生できるのです。ましてや数多くの念仏を称える者については言うまでもありません。

阿弥陀仏は、四十八願に誓われた内容が実現しない限りは決して覚りを開くまいとの自らの御言葉を成就され、今まさに彼の国(である西方極楽浄土)にいらっしゃるのであり、死に臨む(念仏)者の元にお迎えに来て下さるのは確実なことであります。釈尊は「なんと悦ばしいことか、(念仏者は)私の説いた教えに従って、生まれかわりを繰り返す迷いの境涯を離れる」と見通され、六方の諸々の仏たちは「なんと悦ばしいことか、(念仏者は)私たちがそれは確かなことであると証明した言葉を心から信じて、もう決して迷いの境涯に後戻りすることのない浄土への往生を遂げることができるのだ」とお悦びになっています。

天に仰ぎ地に臥して(全身全霊をもって)悦びなさい。この生涯で阿弥陀仏の本願に出会えたことを。行き・留まり・座り・寝る、そうした日常のすべての場面に渡って何時いかなる時にも、(忘れず)報いるようにしなさい。阿弥陀仏の恩徳に。身を委ね頼みとすべきは「乃至十念(ないしじゅうねん)」との(仏の)言葉であり、心より信頼すべきは「必得往生(ひっとくおうじょう)」の一文であります。

 

 

浄土宗のお勤めにおいて、『一枚起請文』とともに拝読されることの多い『一紙小消息』であります。

阿弥陀仏の本願に誓われた念仏ではありますが、いったい何回称えればよいのか?あるいは罪深き身である私たちでも果たして救われるのか?どうしても悩み迷うのが、私たち凡夫の姿でありましょう。法然上人はこの法語の中で繰り返し仰っています。「疑うべからず」と。たとえ末世の凡夫であっても間違いなく救われるのであると。

悦び、報じ、頼み、信ずべきもの、それが仏の真実語であること、仏への信に貫かれた念仏の日暮らし、それこそが大いなる悦びであることが述べられてこの法語は結ばれています。

合掌

法然上人御法語第九

第9 安心gohougo
~まことの心こそが往生の正因である~

【原文】
念仏の行者の存じ候(そうろ)うべき様(よう)は、後世(ごせ)を恐れ、往生を願いて念仏すれば、終るとき必ず来迎(らいこう)せさせ給うよしを存じて、念仏申すより外(ほか)のこと候わず。
三心(さんじん)と申し候うも、ふさねて申す時は、ただ一つの願心(がんしん)にて候うなり。その願う心の偽らず、飾らぬ方をば、至誠心(しじょうしん)と申し候。この心のまことにて、念仏すれば臨終に来迎すということを、一念も疑わぬ方を、深心(じんしん)とは申し候。この上、我が身も彼(か)の土(ど)へ生まれんと欲(おも)い、行業(ぎょうごう)をも往生のためと向くるを、廻向心(えこうしん)とは申し候うなり。
この故に、願う心偽らずして、げに往生せんと思い候えば、自ずから三心は具足することにて候うなり。
(『勅伝 第二十四巻』)

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【ことばの説明】
安心(あんじん)
安心とは詳しくは、「心念を安置すること」を指し、修行によって得られる心の安定した状態を意味する。浄土教においては、阿弥陀仏の本願に誓われた念仏によって、凡夫の散乱する心のままで決定往生の確信を得ること、そのことを安心と呼ぶ。
また浄土宗では安心とは、所依の『観無量寿経』に説かれる「三心(さんじん)」であるとしている。三心とは、阿弥陀仏の浄土に往生する者が持つべき三種の心構えのことで、至誠心(しじょうしん)、深心(じんしん)、廻向発願心(えこうほつがんしん)を指す。
「『観無量寿経』に説いていわく〈もし衆生ありてかの国に生れんと願ずる者は三種の心を発してすなわち往生すべし。何等をか三つとす。一つには至誠心、二つには深心、三つには廻向発願心なり。三心を具する者は必ずかの国に生れる〉と(法然『浄土宗略抄』)」
第一に至誠心とは、身口意の三業(全ての行為や発言や思い)が必ず真実の心にて行われるべき事。
第二に深心とは深く信ずる心であるが、具体的には自分自身が煩悩を具えた凡夫であり、実践できる善き行いは少なく、このままでは輪廻から抜け出る事が難しい、それが故に阿弥陀仏の本願に誓われた念仏により必ず往生を遂げる事ができると信じ疑い無き事を言う。
第三に廻向発願心とは、所修の功徳(自ら為した様々な行いの功徳)を浄土往生という一事にふり向けて往生を願う心の事。
善導大師によれば、この三心を具足する事が往生浄土の条件とされたが、法然上人によれば、称名念仏を実践する中で三心は自ずと具わってくるとされる。「三心四修と申すことの候うは、皆 決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちに こもり候うなり(一枚起請文)」。
さらに、浄土宗第七祖聖冏(しょうげい)禅師の『伝通記糅鈔(でんずうきにゅうしょう)』によれば「念を所求所帰去行の三に置くを安心と云うなり」と言い、所求所帰去行(しょぐ しょき こぎょう)の三つに心を定めることを安心と定義している。
「所求所帰去行」とは、浄土宗の信仰や教行における三要素であり、目的(所求)と対象(所帰)と実践(去行)を指す。それぞれ所求(信仰の目的)は往生浄土(浄土に往生すること)、所帰(信仰の対象)は阿弥陀仏、去行(信仰の実践)は本願念仏であるとされている。

後世(ごせ)
三世(前世、現世、来世)の一つ来世の事。今世での生を終えたのち、生まれかわりを果たした次の生存。
これを「恐れる」とは、次の世において再び迷いの境遇に生まれついてしまう事を危惧して、という意味。

来迎(らいこう)
臨終を迎えた念仏行者のもとに、阿弥陀仏が聖衆とともに迎えに来ること。すなわち浄土宗では来迎とは臨終来迎を指す。
これは『無量寿経』に説かれる四十八願中の第十九「来迎引接願」に基づき、また『阿弥陀経』には「その人命終の時に臨んで、阿弥陀仏、諸もろの聖衆とともに、現にその前に在まします」とある。
なお「らいごう」と読む宗派もあるが、浄土宗では「らいこう」と読み慣わす。

ふさねて
「かさねて」の意味。

至誠心(しじょうしん)
深心(じんしん)
上記安心を参照。

行業(ぎょうごう)
身・口・意の三業の所作。つまりあらゆる行い。

廻向心(えこうしん)
廻向発願心のこと。上記安心を参照。


【現代語訳】
念仏を行ずる者が心得ておくべき事は、(自らの)来世(の生まれ変わりにおける苦しみ)を案じ、(浄土への)往生を願って念仏すれば、(命が)尽きようとするその瞬間に必ず(阿弥陀仏並びに聖衆)が迎えて下さると信じて、念仏を称える事に他ならない。
三心(という往生に必要な心構え)というものも、要するに、ただ一つの(往生を)願う心以外のものではない。その願う心に偽りがなく、表面のみを取り繕うこともない点を「至誠心」と呼ぶのである。この心が真(まこと)から出た心であり、念仏を行えば命終わる時に(阿弥陀仏が)迎えに来て下さるという事を、微塵も疑わない点を「深心」と呼ぶのである。さらに、(まさに)私自身が彼の浄土(西方極楽浄土)へ生まれようと望み、(自ら為した)あらゆる善き行いを往生の為にこそ振り向ける事を「廻向心」と呼ぶのである。
以上のように、(往生を)願う心に嘘偽りがなく、心の底から往生したいと思えば、おのずと(往生の条件とされる)三心が備わってくるのである。


善導大師は三心こそが往生を遂げるための正因であるとし、この三心を具足した称名念仏を勧めた。三心とは一言で言えば「まことの心」であるが、心から阿弥陀仏を信じ、その浄土への往生を願い、常に心がそこから離れないことが求められる。
しかしながら私たちは紛うかたなき凡夫である。常に心が動じ、留まる事を知らず、「凡夫の心は物にしたがいてうつりやすし。たとえば猿猴(サル)の、枝につたうがごとし。まことに散乱して動じやすく、一心しずまりがたし」と表現される。
そんな私たちにとり、心を常に弥陀如来に寄せ、極楽往生を願う心を持続する事がいかに困難であるか。
法然上人は善導大師の心を汲み、そして仏の慈悲心を受け止めて、こう結論するのである。
難しく考える必要はない、念仏を称え続ければ、必ずまことの心である三心が自ずと具わってくるのだと。
合掌

法然上人御法語第八

第8 万機普益gohougo

~数ある御教えの中でも~

 

【原文】

浄土一宗の諸宗に超(こ)え、念仏一行の諸行に勝れたりという事は、万機(ばんき)を摂(せっ)する方(かた)をいうなり。

理観(りかん)・菩提心(ぼだいしん)・読誦大乗(どくじゅだいじょう)・真言(しんごん)・止観(しかん)等、いずれも仏法のおろかにましますにはあらず。みな生死滅度(しょうじめつど)の法なれども、末代になりぬれば、力及ばず。行者の不法なるによりて、機が及ばぬなり。

時をいえば、末法万年(まっぽうまんねん)の後、人寿十歳(にんじゅじっさい)につづまり、罪をいえば、十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)の罪人なり。老少男女(ろうしょうなんにょ)の輩(ともがら)、一念十念の類(たぐい)に至るまで、みなこれ摂取不捨(せっしゅふしゃ)の誓いに籠(こも)れるなり。

この故に諸宗に超え、諸行に勝れたりとは申すなり。

(『勅伝 第四十五巻』)

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【ことばの説明】

万機(ばんき)を摂(せっ)する

「万機」はあらゆる機根を持つ衆生、機根は衆生の素質や能力を意味するから、素質や能力を問わずあらゆる衆生を対象として、

「摂す」は救い取ることを意味するので、「万機を摂する」とは「あらゆる衆生を救い取る」ということ。

 

理観(りかん)・菩提心(ぼだいしん)・読誦大乗(どくじゅだいじょう)・真言(しんごん)・止観(しかん)等

ここで様々な仏教の修行方法が列挙されている。

理観(りかん)とは「理の念仏」とも呼び、「三身即一(さんじんそくいつ)の仏」と呼ばれる普遍的な真理としてのブッダを洞察しようとする観想の方法。極めて高度な能力や資質が求められる難行であるとされていた。

菩提心(ぼだいしん)は、詳しくは「阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)」のこと。また「発菩提心(ほつぼだいしん)」とも言い、悟りを求め、仏とならんとする決意を意味する。大乗仏教の修行道の出発点。

読誦大乗(どくじゅだいじょう)は、大乗の経典を手に取って読み、さらにそれを暗唱すること。

真言(しんごん)の本来の意味は「真実の言葉」、原語でmantra(マントラ)と言う。ここではこの真言を教義実践の中心に置く密教の修行を意味する。

止観(しかん)は、止(śamatha シャマタ)と観(vipaśyanā ヴィパッシャナー)とに分かれる。止は「心を静め、一つの対象に集中させること」、観は止によって安らかとなった心を土台として「正しい智恵を働かせて、世界をあるがままに観察すること」。仏教における瞑想法を説明したもの。中国の天台大師智顗が著わした『摩訶止観(まかしかん)』において組織的に説かれた。ここではその天台における止観の行法を指している。

 

生死滅度(しょうじめつど)の法

生死の苦しみを伴う迷いの境涯を滅ぼし、悟りの境涯に渡るための教え。上に挙げられた種々の仏道修行のこと。

 

十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)

「十悪」とは、仏教で数える十種の悪い行いのこと。身口意(しんくい)の三業、つまり身体による動作と、口で発する言葉と、心の中で思うこと、これらで行う悪しき行為であるとされ、苦しみ多き境涯に赴く原因となる。

殺生(せっしょう 生き物の命を断つこと)、偸盗(ちゅうとう 盗むこと)、邪婬(じゃいん 道に外れた性交渉)、以上が身体で犯す身業(しんごう)。

妄語(もうご 嘘やたぶらかしの言葉)、両舌(りょうぜつ 争いや仲違いを誘因する言葉)、悪口(あっく 暴言や罵りの言葉)、綺語(きご 誠実さのない言葉)、以上が口でなす口業(くごう)。

貪欲(とんよく 貪り)、瞋恚(しんに 怒り・憎悪)、邪見(じゃけん 誤った見解つまり因果の道理の否定)、以上が心に思うことでなす意業(いごう)。

以上の合計で十種を数える。

 

「五逆」とは、十悪よりもさらに罪が重いとされる五つの大罪。

『阿毘達磨俱舎論(あびだつまくしゃろん)』によれば、

殺母(せつも 母を殺すこと)、殺父(せっぷ 父を殺すこと)、殺阿羅漢(せつあらかん 迷いを脱した聖者、仏弟子を殺すこと)、出仏身血(しゅつぶっしんけつ 悪意をもって仏の身体を傷つけること)、破和合僧(はわごうそう 修行僧の和を乱し分裂させようとすること)、以上が五逆となる。

これらを一つでも犯すと死後ただちに無間地獄(むけんじごく)に堕ちるとされる。無間地獄とは別名「阿鼻地獄(あびじごく)」とも呼び、最も苦しみの大きい地獄であるとされる。

 

【現代語訳】

浄土の一宗(浄土の教え)が他の諸宗(浄土以外の教え)より勝れ、念仏という一行が他の様々な修行法よりも勝れているという事は、全ての衆生を漏れなく救い取るという点を言っているのです。

(もちろん)真理を見ようとする観法、覚りを求めんとする決意、大乗経典の読誦、真言の教え、止観の行など、(従来から大切とされてきている)どんな修行も仏の教えとして不十分であるという訳ではありません。(これらは)皆、生死の苦しみを滅して覚りを得ようとする教えではありますが、末法の時代になり、(仏道を行ずる者の)力が及ばず、修行者が教えに背いてしまうことによって、素質や能力が追い付いていかないのです。

時代について言うならば、末法の時代に入って一万年が経った後、人の寿命もついに十歳にまで縮まってしまい、罪ということについて言うならば、十悪五逆と呼ばれる大罪を犯してしまう罪人でもあります。(そのような)老若男女の人々であり、(念仏を)一回ないし十回しか称えないような人々に至るまで、皆(仏の)「救い取って捨てることのない誓い」の対象に含まれているのです。

だからこそ(浄土の教えは)他の教えより勝れ、(念仏が)他の修行法よりも勝れていると申し上げるのであります。

 

数ある仏教の教え(法門)の中でも、浄土に関する教えは最も勝れ、その中でも仏によって選ばれ誓われた念仏(選択本願念仏)がより勝れている。これが法然上人の見出された確信であります。

ここでは、浄土一宗(浄土に往生する教え)が、他の教えよりも勝れている所以をひとことで言い表しています。

つまり「全ての衆生を漏れなく救い取る」という一点において勝れていると。

”仏の光明は遍(あまね)く十方世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず”

自分自身の力では仏の境地に至ることが叶わず、また時として悪をなしてしまうのが末法に生きる私たちの姿でもあります。

そんな私たちに差し伸べられた一筋の光明、法然上人にとり弥陀の本願に裏打ちされた浄土往生の教えは、まさにそのようなものだったのではないでしょうか?

合掌

法然上人御法語第七

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第七 諸仏証誠

~諸仏による証明は決して虚しいものではない~

 

【原文】

六方恒沙(ろっぽうごうじゃ)の諸仏舌をのべて 三千世界に覆いて、「専らただ弥陀の名号を称えて、往生すというは、これ真実なり」と証誠(しょうじょう)し給うなり。これまた念仏は、弥陀の本願なるが故に、六方恒沙の諸仏、これを証誠し給う。余(よ)の行は、本願にあらざるが故に、六方恒沙の諸仏、証誠し給わず。

これにつけても、よくよく御念仏(おねんぶつ)候(そうろ)うて、弥陀の本願、釈迦の付属、六方の諸仏の護念を深く蒙(こうぶ)らせ給うべし。

弥陀の本願、釈迦の付属、六方の諸仏の護念、一々に虚しからず、この故に、念仏の行は、諸行に勝れたるなり。

(『勅伝 第三十二』)

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【ことばの説明】

六方恒沙(ろっぽうごうじゃ)の諸仏

「六方」とは、東・南・西・北・下・上の六つの方角で、六方であらゆる方向を表現する。

「恒沙」は「恒河沙(ごうがしゃ)」の略。恒河(ごうが=ガンガー)とはガンジス川、恒河沙はガンジス川の川辺にある無数の砂のこと、これは数量が無数(数えきれないほど多い)ことを指している。

従って「六方恒沙の諸仏」とは、四方と上下の六方向におわすガンジス川の砂の数にも喩えられるほど数多くの仏を意味する。

 

舌をのべて

「舌を伸ばして」の意。悟りを開いたブッダに備わる32種の優れた身体的特徴(三十二相)の一つに、舌が大きく長い(長広舌 ちょうこうぜつ)という特徴がある。仏たちはその長い舌を伸ばして、経典の言葉に偽りがないことを証明しているのである。

 

三千世界

三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)の略称。仏教的世界観において世界の最小単位は「小世界(一世界)」といわれるが、それぞれの世界が、中心にそびえたつ須弥山(しゅみせん)とその周りを囲む九山八海(九つの山々と八つの海)、さらにその外側にある四洲 (四つの大陸)、また天空の太陽や月などの天体を一通り備えた環境であると言われる。その最小単位の小世界がおよそ1000個集ったものを小千世界、この小千世界がさらに1000個集ったものが中千世界,この中千世界がさらに1000個集ったものが大千世界、すなわち三千大千世界である。

そしてこの三千大千世界が一人のブッダの教化が及ぶ範囲とされ、我々が住むこの小世界を包含する三千大千世界を別名娑婆世界(sahā サハ―)とも呼ぶ。ここはかつて釈迦仏が教化した範囲であり、ここより西方に位置する極楽世界が阿弥陀仏の教化する世界となる。

 

証誠(しょうじょう)

誤りなく真実であることを証明すること。

 

弥陀の本願、釈迦の付属、六方の諸仏の護念

阿弥陀仏の本願は『無量寿経』において明かされ、釈迦仏の付属は『観無量寿経』に説かれる。これは釈迦が最終的に仏の本意は念仏にあるとして阿難に付属したことをいう(選択付属 せんちゃくふぞく)。この場合の「付属」とは、教えを授け、後世に伝えるように託すことを意味している。

また六方の諸仏の護念は、『阿弥陀経』において説かれている、東・南・西・北・上・下の六方の諸仏が念仏する行者を護り、決して離れることがないことを言う。これは念仏者が極楽に往生を遂げる前に、この現世において得ることができる利益である。

 

【現代語訳】

六方に広がる全世界の仏たちが、その舌を伸ばして三千大千世界を覆い、「〈専ら阿弥陀仏の御名を称えることで往生を果たせる〉という教えは誤りなく真実である」と証言されています。また同時に念仏が阿弥陀仏の本願であるという理由から、その真実性が(同じく)六方世界の仏たちにより証明されているのです。(それに対して)念仏以外の諸行は本願ではないため、六方世界の仏たちは、(その教えが)真実であるとは証言されていません。

このことからも、念を入れて十二分にお念仏をなさり、阿弥陀仏の本願、釈尊仏の付属、六方世界の仏たちの御加護を深く受け入れて下さい。

阿弥陀仏の本願、釈尊仏の付属、六方世界の仏たちの御加護は、それぞれが意味のあるものなのです。それ故に、念仏の行は他の行に比べて各段に勝れているのです。

 

 

この一段が説かれたのは、念仏の教えに対する疑いを正して、正しい信へと導くためである。仏教では悟りへの妨げとなる心の働きを「煩悩」と呼び、その煩悩に98ないし108を数えるが、その中に「疑」がある。「疑」とは、凡夫が自分自身の見解に捉われて、仏の説示に対して十分な信を持ち得ないことを指している。

そしてここでは、阿弥陀仏の本願によって誓われた念仏(本願念仏)が、他のあらゆる行より勝れている所以が、”釈迦の阿難への付属”と”諸仏による証誠”によって示されているのである。ともに他ならぬ仏による証明であり、念仏が”虚しからざるもの”すなわち、必ず極楽への往生を遂げさせる”実あるもの”としてここに示されている。まさに凡夫の疑念をさしはさむ余地なきものとして。

華厳経にいわく「信は道元にして功徳の母となし」。

合掌

 

法然上人御法語第六

第六 五劫思惟gohougo

~因果を超えて~

 

【原文】

酬因感果(しゅういんかんか)の理(ことわり)を、大慈大悲の御心の内に思惟して、年序そらに積もりて、星霜五劫(せいそうごこう)に及べり。然るに善巧方便(ぜんぎょうほうべん)を廻(めぐ)らして思惟し給えり。

然(しか)も、「我れ別願をもて浄土に居(こ)して、薄地低下(はくじていげ)の衆生を引導(いんどう)すべし。その衆生の業力(ごうりき)によりて生まるるといわば、難(かた)かるべし。

我れ須(すべから)く衆生のために永劫(ようごう)の修行を送り、僧祇(そうぎ)の苦行を廻(めぐ)らして、万行万善(まんぎょうまんぜん)の果徳円満(かとくえんまん)し、自覚覚他(じかくかくた)覚行窮満(かくぎょうぐうまん)して、その成就せん所の、万徳無漏(まんとくむろ)の一切の功徳をもて、我が名号として、衆生に称えしめん。衆生もし此(こ)れに於(お)いて信を致して称念せば、我が願に応えて生まるる事を得(う)べし。『勅伝 第三十二』

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【ことばの説明】

酬因感果(しゅういんかんか)

原因となる行為がもたらした結果としての果報を得ること。ここでは修行という因(原因)が成仏という果(結果)をもたらすことを意味している。

 

五劫(ごこう)

「劫」とは極めて長い時間のこと。 サンスクリット語のkalpa(カルパ)の音を写した「劫波(劫簸)」を省略した表現。

一つの宇宙(世界)の誕生(始まり)から消滅(終わり)までの1サイクルを指し、ブラフマー神(梵天)という神にとっての一日に等しいという。仏典において具体的な数値は示されないが、よく引かれる譬喩(『雑阿含経』あるいは『大智度論』)によれば下記の通り。

「一返が一由旬(いちゆじゅん 四十里=約157キロ)に及ぶ巨大な岩を、100年に一度だけ布で撫で、その結果としてようやく岩がすり減ってなくなってしまうまでの長い期間を経ても、実はまだ劫には及ばない(劫はそれほど長い期間である)」(磐石劫 ばんじゃくこう)、

あるいは「四方四十里の城を芥子粒(けしつぶ)で満たし、その後100年に一度、その芥子粒を一粒づつ取り出していき、最終的に全ての芥子粒がなくなってもまだ劫には及ばない」(芥子劫)。

一つの劫(一大劫)を時間的経過によって分類する場合は、世界の生成(成劫 じょうこう)、存続(住劫 じゅうこう)、破壊(壊劫 えこう)、消滅後の世界が存在しない状態(空劫 くうこう)の4段階で考える。

法蔵菩薩が四十八願を立てる為の思惟に「五劫」を要したことは『無量寿経』に説かれている。

 

善巧方便(ぜんぎょうほうべん)

サンスクリット語ではupāyakauśalya(ウパーヤカウシャリヤ)といい、巧みな手立て(方法、手段)のこと。仏が衆生を救済し導くに当たり、衆生側の機根(素質、性格、置かれている状況)に応じて最適な手段を講じること。

 

別願

諸仏・菩薩に共通する「総願」に対して、「別願」とは諸仏・菩薩が各々の立場より起こす個別の誓願のこと。

「総願」は四弘誓願(しぐせいがん)ともいい、大乗の菩薩が初発心時に必ず立てなければならない四つの誓いで、

  1. すべての衆生を救うこと(度)、②すべての煩悩を断つこと(断)、③すべての教えを学ぶ
  2. こと(知)、④この上ない悟りを得ること(証)をその内容とする。

阿弥陀仏の別願は四十八願である。「今この四十八願は、これ弥陀の別願なり」(法然『選択集』)。

 

業力(ごうりき)

業の力、すなわち果報を生じさせる原因となる業の働きのこと。業(karman カルマン)のもとの意味は「行為、行い、活動」、何らかの意志的な行為は、必ず一定の結果を行為の主体にもたらすとされ、そこに見いだされる法則性が「善因楽果(ぜんいんらっか)、悪因苦果(あくいんくか)」ということになる。善き行いは必ず心身に楽をもたらし、反対に悪なる行為は心身に苦をもたらす。

 

僧祇(そうぎ)

「阿僧祇(あそうぎ)」の略。阿僧祇は原語 asaṁkhya(アサンキャ 数えられない)から、つまり「数えきれない、無量の、無数の」を意味する。

 

果徳

修行の結果として自ずから得られる徳(よい性質、利益)のこと。

 

自覚覚他(じかくかくた)覚行窮満(かくぎょうぐうまん)

「自覚」は自ら覚悟(さとり)を獲得すること、「覚他」は他者(衆生)をして自らと同じさとりの境地に導く(成仏させる)こと。

「覚行窮満」は、自ら覚り他を覚らせる、この両者を満たすことにより、はじめて「覚行」は完成し菩薩は仏となることができることを意味する。

「自覚覚他覚行窮満せる之を名づけて仏と為す」(善導『観経疏』「玄義分」)。

 

【現代語訳】

(弥陀の前身、法蔵菩薩は)(衆生が)修行を行うことを原因として、それに応じた果報を得るということ(因果応報の道理)について、大いなる慈悲の御心にて熟考を重ねるうち、いつしか年月が積み重なり、過ぎ去った歳月は五劫にも及んだ。それでもなお(衆生を導く為の)巧みな手立てについて考え続けた。

(そうして考え続けた)その上に、「わたくし(法蔵)は、別願(という特別な願)を立てて浄土に住み、修行をしたがまだ高みに達していない人々を導き入れよう。(ただし、そうしたところで)人々自身の行い(修行)がもたらす果報として、浄土に生まれさせることは(因果の道理に従えば)難しいだろう。

(それならば)わたくしは是が非でも人々のために、限りなく長い修行生活を厭わず、また果てしなく長い期間の苦行を企て、多くの修行と善き行いの結果として得られる徳を完全に満たし、わたくしがさとるだけではなく、人々をしてわたくしと同等のさとりの境地に導くことで覚りに向かう修行をも完成させ、そうした結果として(わたくしに)備わる、悟りの障害となる煩悩のけがれのない全ての功徳をわたくし自身の名号とし、人々に称えさせよう。人々がもしこれを深く信じて、称名念仏を行うならば、わたくしの願いに応じて(人々はわたくしの作った極楽浄土に)生まれることができるであろう」

 

 

仏教では因果応報が大原則であった。自らの責任において為した行いの報いは、必ず受け取らなければならない(自業自得)。そして大きな果報である「仏のさとり」や「仏国土への往生」を果たすためには、それに見合うだけの厳しい修行や、善き行いを積み重ねなければならない。

さらにここでは、「衆生の業力(ごうりき)によりて生まるるといわば、難(かた)かるべし」と言われる。濁世に生き、煩悩による造罪を重ねる衆生自身の行いによっては、浄土への往生を果たすことは誠に難しいというのである。ではどうすればよいのか?

そこで仏によって示されるのが全ての功徳が込められた「南無阿弥陀仏」の名号である。

深く信じ、その名号を称えれば、必ず往生を遂げられる。

仏の大慈悲に基づき、信心と称名こそが往生の要行であることを述べた法語である。

合掌