法要

和尚のひとりごとNo137「施餓鬼」

今月は彼岸がございます。浄土宗の多くの寺院では彼岸法要は施餓鬼会を勤めます。玉圓寺でも施餓鬼会を勤めます。

餓鬼に施すことよって得られた徳をご先祖さまに送る法要です。

 

餓鬼とは、六道(地獄 餓鬼 畜生 阿修羅 人間 天上)の餓鬼に堕ちてしまった衆生(人々)です。

餓鬼は常に飢えと渇きに苦しんでいることから、餓鬼に堕ちるのは、食べ物を粗末にした人だけと思われがちですが、それだけではありません。嫉妬深かったり、欲深いことなどもあげられます。

人はだれでも、欲があり、物を強く手に入れたいと思うこともありますし、他人をうらやむ心が強ければ、嫉妬にもつながります。

悪いことしたから 悪い人だから、餓鬼に堕ちるわけではありません。私たちは誰でも餓鬼に堕ちる可能性があるのです。

しかし、私たちには、お念仏による極楽往生という救いがあります。

皆さま、お念仏をお称えし、私たちだけが救われるのではなく、施餓鬼会をお勤めして、ご先祖さまを供養し、餓鬼に堕ちてしまった衆生(人々)の苦しみをなくして救いとってあげて下さい。

和尚のひとりごとNo127「天上天下唯我独尊」

 

 この地球上には沢山の生物が住んでいます。人間を含め、あらゆる動物、昆虫、微生物が共存しています。名前が付いているだけでも120万種類、未発見のものを含めると800万種類とも1000万種類以上とも言われています。その一つ一つを数え上げると恐ろしい数字になります。その中で人間として生まれ出る確率を計算された方がおられます。人体構造からその確率を計算すると、およそ1400兆分の1だそうです。又ある学者さんは1億円の宝くじに100万回連続して当たる確率と計算されました。いずれにしてもこの世の中に今、人間として生まれ出、私という自分自身が生きている事は奇跡と言えるでしょう。仏様の教えを説かれたお釈迦様はこの奇跡を「盲亀浮木の譬え」としてお説きくださいました。

「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀が住んでいる。その目の見えない亀、盲亀が百年に一度、海面に顔を出す。また広い海には一本の丸太の木が浮いていて、その木の真ん中には小さな穴が空いている。亀の顔が出る位の小さな穴。その浮木は風の吹くまま波に揺られ、東へ西へ、北へ南へと漂っている。そして百年に一度浮かび上がる盲亀が、浮かび上がった拍子に、たまたまこの浮木の穴にヒョイと頭を入れ、穴から顔を出す事があるであろうか?人間に生まれるという事はこの盲亀が浮木の穴から顔を出すよりも難しい事である」と説かれました。

 sigatu以上が「盲亀浮木の譬え」というお話で、人間に生まれ出た有り難さ、今、生きている事の尊さをお説きくださいましたお釈迦様であります。「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」とは、お釈迦様が誕生した時に七歩歩まれ発せられた言葉です。六道という六つの苦しみの世界を抜け出る教えを説かれたので七歩歩まれたとされ、右手で天を左手で地を指し「天上天下唯我独尊」と言葉を発せられたというお釈迦様を崇め奉っての御伝記です。「この世の中に唯一無二の存在として生まれた出た自分であり、誰とも代わる事の出来ない人間として、この命のままで尊い」という意味であります。人の価値は他人と比較して優劣を決めるものではありません。人はそれぞれ他の人にはない持ち味があり、その持ち味を生かし、それぞれが自分らしく生きていく事が大切であります。

 無駄な命、無意義な人間は存在しません。人それぞれ果たすべき大事な使命、生きる意義があるものです。お互いの役割を尊重しながら、社会の一員として生活して参りましょう。

和尚のひとりごとNo124「歩みの はやさ それぞれ」

 

 『ウサギとカメ』という寓話があります。足の速いウサギと足の遅いカメが競争したところ、足の速いウサギは勝つと過信して途中で居眠りを始めてしまい、その間カメは休む事なく歩き続け、ウサギが目を覚ました時にはカメが先にゴールに辿り着いていたというお話です。過信して思い上がり、自惚れ油断してしまうと物事を逸してしまうという戒めになっています。歩みは遅くとも着実に真っ直ぐ進む事で、最終的には大きな成果を得る事が出来るという教訓であります。

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 仏教は信仰と修行の二本柱です。浄土宗においては南無阿弥陀仏と御念仏を申せば、最期臨終の夕べには必ず阿弥陀様に迎えに来ていただき、西方極楽浄土へ往生させていただけるという御教えが信仰です。そしてその事を素直に信じ、只ひたすら南無阿弥陀仏と御念仏を申し続ける事が修行であります。信行双修(しんぎょうそうしゅ)と言われ、信仰の「信」と修行の「行」との両方を片寄りなく修めるように教化しています。

 信心についてはたった一度の御念仏で阿弥陀様は必ずお迎えに来てくださると信じ、行については一生涯続けて励むべきであると言われます。一生涯続ける事を念仏相続と申しますが、何故一生涯御念仏を申し続ける必要があるのでしょうか。それはたった一度の御念仏でも救われるからといって、毎日続けて御念仏を申していなかったら遂には口から南無阿弥陀仏の御念仏が出てこなくなり、御念仏の事すら忘れてしまう様になってしまうからであります。ですから一生涯、南無阿弥陀仏と申し続けてくださいと御念仏の相続を勧めています。

 

 雨そそぐ 軒の下石 くぼみけり 難きわざとて 思いすてめや

 

 軒下の硬い石であっても何年も絶え間なく雨だれに打たれ続けると窪んでゆきます。何事も休まず怯まず、急がず慌てず、辛抱強く継続して努力する事が大切です。仏道修行も休まず怯まず、急がず慌てず継続していく事が大事です。浄土宗の御念仏は阿弥陀様のお救いを信じて、ただ南無阿弥陀仏とお称えするだけの易行であります。いつでもどこでも誰にでも出来る易しい修行であります。毎日数回、数分でも結構ですので南無阿弥陀仏と共々に申し続けて日々過ごして参りましょう。

和尚のひとりごとNo110「鎮西忌」

 

2月の行事は、一般的には、2月3日の節分 2月14日のバレンタイン、仏教徒には、2月15日の涅槃会。涅槃会というのは、簡単に説明すると、お釈迦さまのご命日の年忌法要です。涅槃会については、和尚のひとりごとNo41をご覧下さい。

 

そして、私達浄土宗檀信徒には、鎮西忌(ちんぜいき)があります。

鎮西忌は、浄土宗第二祖(二代目)の聖光房弁長上人(しょうこうぼうべんちょうしょうにん)の年忌法要です。

鎮西とは、九州の別称であり、平安時代末から鎌倉時代にかけて九州のことを鎮西と呼ばれていたことにはじまります。

聖光房弁長上人は鎌倉時代の人で九州を中心に活躍されていたことから、鎮西上人と呼ばれています。そして、上人の忌日法要を鎮西忌と呼んでいます。

 

平成29年2月現在 知恩院の御影堂は改修工事中で仮の御影堂にてお勤めされておられ、

仮の御影堂には三上人のお像がお祀りされています。

真ん中のお像が、法然上人。法然上人に向かって右側にお祀りされているのは知恩院第二世の源智上人。そして、左側にお祀りされているのが聖光房弁長上人です。

 

余談ではありますが、現在の浄土宗は大きく分けますと、二つに分かれます。

浄土宗を開かれたのは法然上人ですが、その跡(あと)を継がれた方によって分かれています。

一つは、私たちの聖光房弁長上人を二代目とする知恩院を本山とする浄土宗。

もう一つは、証空上人を二代目とする浄土宗。

私たちは「鎮西派」、証空上人を二代目する浄土宗は「西山派」(せいざんは)と呼ばれています。