浄土宗月訓カレンダー

和尚のひとりごとNo168「まごころのおすそわけ」

 

 ある海にとても綺麗な一匹の魚が住んでいました。その魚の鱗(うろこ)は青に緑に紫にキラキラと光っていて、海の中で一番美しく輝いていました。この綺麗に光り輝く鱗を持つ魚は他の魚たちから“にじうお”と呼ばれていました。“にじうお”は自慢の鱗を光り輝かせながらいつも得意げにスイスイと泳いでいました。

 他の魚が「一緒に遊ぼうよ」と声をかけてきても見向きもしません。小さな魚が「綺麗な鱗をたくさん持っているんだから一枚分けてくれないか」とお願いをしても、「一体何様のつもりだ!」と一喝するのでした。そんな態度の“にじうお”を見て、他の魚たちは“にじうお”に近づかなくなっていきました。やがて“にじうお”は自慢の綺麗な鱗を誰にも見てもらえなくなり、寂しい思いをする日々が続きました。そこで“にじうお”は、「どうしたら寂しい思いをせずに幸せに過ごせるのか?」と思い悩み、賢いタコのおばさんに相談しました。タコのおばさんは、「その綺麗な鱗を皆に分けてあげたらいいのよ」と言いました。“にじうお”は、「自慢の鱗が無くなるのにどうして幸せになれるのか?」と思いました。けれどもタコのおばさんの言う様に、他の魚のお願いを聞き入れて鱗を分けてあげる事にしました。すると綺麗な鱗をもらった魚はとても嬉しそうに喜びました。その様子を見た“にじうお”は何だか嬉しい気持ちになりました。さらに鱗をもらいに来た別の魚たちにも少しずつ分けてあげました。“にじうお”の自慢の鱗は少しだけになってしまいましたが、心は嬉しくなり皆と楽しく暮らしました。(『にじいろのさかな』マーカス・フィスター著)

 19ugatu人は自分のものとして手に入れると手放したくなくなる気持ちが生じます。仏教では慳貪(けんどん)といって、自分だけの利益を追求し、他人に施す事のない惜しむ心を言います。所有する事で他人より優位に立っている気持ちになれるので所有欲が起こるのです。しかし、その様な心の人は、ただ蓄財するだけの心に囚われてしまい、他人の事を考える事もしなくなると戒められております。多くのものを持っていても独り占めをするのでは疎まれてしまい、やがて孤立してしまいます。金銭的なものにかかわらず技術や能力といったものも他の人にそれを分け与え、教えていく事で多くの仲間を得、更により良いものが生まれてくるものです。生まれ持った能力は人それぞれ違います。得手、不得手はあるものです。自身の恵まれたものを他者に分け与える喜びを知り、外面的な美しさよりも内面的な心の美しさを育てさせていただきましょう。

和尚のひとりごとNo165「ここにいるよ あなたを想っている」

 

 人生の壁にぶつかった時、ふと立ち止まり自分自身を見つめ直したくなる時があります。「何故この世に生まれてきたのか?」「この人生に意味はあるのか?」「どうして私ばかりがこんな苦しみを受けなければならないのか?」

 自らの意思で、明確な目的意識を持ってこの世に生まれてきた事を知っているのであるならば、壁にぶつかったとしても生きる事に意味を見出すのは簡単でしょう。しかし私たち人間は、気がついた時には既にこの世に人として生まれており、それぞれの与えられた環境の下で生活が始まっています。ですから時としてこの人生に意味を求め、「私は何の為に生きているのか?」と自問自答したくなるのでしょう。人間は、意味や理屈を求める生き物でありながら、生きる事にどんな意味があるのか分からないまま人生が始まっているところに根源的な悩みが生まれるのです。19hatigatu

 

 またこの世の中は非常に不条理なものです。善人が必ず報われ、悪人が必ず罰せられて衰えていくのならば納得もいくのでしょうが、善人が必ず栄え報われるとは限りません。東日本大震災の様な天災や、多発する交通事故、ニュースで見聞きする事件等で犠牲になった方々は悪人だったのでしょうか?地震などの天災は、遺族にとって怒りの矛先が無い非情な出来事であり、不条理極まりないものです。科学的に地震の発生原因を解明し、どうして死に至ったのかを説明したところで遺された人々の苦しみを癒す事は出来ません。

 

 東日本大震災では発生当初多くの僧侶も駆けつけ、様々な宗派の葬送儀礼が各地で勤められました。浄土宗は、「死後、御浄土で再会出来る」という御教えです。南無阿弥陀佛とお念仏を御称えしたならば、命尽きた後、西方極楽浄土に往き、そこで亡き人と再び会う事が出来るという、科学的根拠の全く無い御教えです。しかし、死別という悲しみにおいては「何故死に至ったのか?」「どうしてこの様な事が起きたのか?」という科学的な原因究明よりも、死後の世界は有り、今生で死に別れても再会出来る場所が有るという非科学的な教えが遺族の方々に大きな安らぎを与えました。

 

 非情な悲しみに遭い、「何故生きているのか?」と人生の意味を問うた時、科学的視点では安らぎを得られません。科学的に人生を解明しても人類は単なる進化の過程に過ぎないからです。私たちは望むと望まざるにかかわらず、気付いた時には既に人生がスタートしており、平等でない環境の下、不条理な世の中を生き抜いていかねばなりません。生きる事の意味を問うた時、目には見えない信仰の世界が一番の救いになり、現実を生きる我々に生きる力を与えてくれるものであります。先立たれた方は間違いなくお浄土に居て、「ここにいるよ。あなたを想っている。」と亡き人が私達を見守ってくださっていると思いを馳せ、共々にお念仏を申して過ごして参りましょう。

和尚のひとりごとNo162「善き行いに 善き心」

 

 昔、中国に白楽天(はくらくてん)というお方が居られました。国を治めていくに当たり、道林禅師(どうりんぜんじ)という僧侶にどの様な政(まつりごと)をすれば良いか尋ねられました。白楽天がお寺を訪ねると道林禅師は木の上で座禅を組んで居られました。ビックリした白楽天は、「そんな所で座禅を組んで居ては危ないですよ。」と言うと、禅師は、「危ないのはそなたの方じゃ。」と返されました。白楽天は、「私は大地の上に立っておりますから全然危なくありません。木から落ちたらどうするのですか。あなたの方が危ないです。」と言うと、「いやいや危ないのはそなたじゃ。」とまた禅師に返されました。「どうして私の方が危ないのですか。」と聞き返しますと禅師は、「お前の思い一つで世の中が変わる。この国が良くなるか悪くなるかはお前の心一つである。だから危ないのじゃ。」と仰られました。「ですから私は禅師に教えを請うて、それでこの国を治めていきたいと思い尋ねて参りました。」と言うと道林禅師は、

 「諸悪莫作(しょあくまくさ)  衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)

  自浄其意(じじょうごい)   是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」

<意訳>

 「諸々の悪をなす事なかれ    諸々の善を奉行せよ

  自らその心を浄(きよ)くする これ諸仏の教えなり」

 

 と仰られました。それを聞いた白楽天は、「そんな事ぐらいは百も承知です。もっと違う仏教の奥義を教えて頂きたい。」と再度お願いすると禅師は、「たとえ三歳の童子これを知るといえども、八十の翁(おきな)これを守る事を得ず。」と返答されました。19hitigatu

 「善い事をしなさい。悪い事をしてはいけませんという事は三つの子供でも知っている事です。しかし八十歳になってもなかなか守る事が出来ないものですよ。だからその心というものをしっかりと心得て守っていけば宜しい。それが仏様の教えです。」と仰せになられたのです。

 仏教の根本は、どんな悪い事も致しません。どんな小さな善い事でも進んでしていきましょう。そして私(自分)の心を浄(きよ)くしていく事が仏の教えであります。心を浄くするというのは、自分勝手な欲を起こさず、損得を考えず、善い行いを進んでしていく事です。出来るだけ善き心を育てさせていただいて、日々和やかにお念仏申して過ごして参りましょう。

和尚のひとりごとNo159「ひとつ ひとつ いのち輝く」

 

 中国においてお念仏の御教えを弘められた善導大師(613〜681)の書かれた『往生礼讃(おうじょうらいさん)』という書物の中に「日中無常の偈」というお言葉があります。

 

 人生不精進(にんしょうふしょうじん)   「人生けるとき精進(しょうじん)ならざれば」

 喩若樹無根(ゆにゃくじゅむこん)  「喩えば植え樹の根無きがごとし」

 採華置日中(さいけちにっちゅう)  「華を採りて日中に置かんに」

 能得幾時鮮(のうとくきじせん)  「よく幾ばくの時か鮮やかなる事を得ん」

 人命亦如是(にんみょうやくにょぜ)  「人の命も亦是の如し」

 無常須臾間(むじょうしゅゆけん)  「無常須臾(しゅゆ)の間なり」

 勧諸行道衆(かんしょぎょうどうしゅう) 「諸々の行道衆を勧む」

 勤修乃至真(ごんじゅないししん)  「勤修(ごんじゅ)して乃ち真に至りたまえ」

 

 意訳をすると次の様になります。

「人として生きていく上で、自らを磨かぬ者は根の絶えた樹の様なものだ。

 華を採り、日なたに置いておいたならば、その美しさはいつまで続くというのか。

 我々のこの世の命も同じである。たちまちにして儚く消えるものである。

 仏道を歩む者達に勧める。よくお念仏に努め励み、悟りを目指してお浄土に至れ!」

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 私達はどうかすると怠け心で日暮しをしてしまいます。若い時は色んな事に興味を持ち、目標を立てて、何事に対しても挑戦する気持ちも湧いてくる事でしょう。しかし年齢とともに体力が衰えてくると、気力も落ち、何に対してもやる気が起こらない時も増えてまいります。この世の命は儚い朝露の様なものでアッという間に消えて無くなるものです。この世の事だけに重きを置いて目標を立ててもなかなか夢を叶えられず、夢途絶えると益々気力は衰える一方です。しかし、目に見える今この世だけではなく、命尽きた後も往く世界がある。後の世を思う信仰心がしっかりしていれば、年齢は関係なく命輝き、この世を生ききる事が出来ます。信仰の根をしっかりと生やして、お浄土で花咲かせられる様に日々、共々に南無阿弥陀佛とお念仏を申して過ごして参りましょう。

和尚のひとりごとNo156「少欲知足(しょうよくちそく)」

 『無量寿経』の中に、「有田憂田(うでんうでん)・有宅憂宅(うたくうたく)」という言葉が出てきます。田んぼが有れば、田んぼによって憂(うれ)い。家が有れば家によって憂(うれ)うという意味です。田んぼや広い土地が有ったら結構な事と思うけれども、その田んぼが有る事によって「水は大丈夫か」「肥料は足りているか」と憂いや心配事が出てくる。それが「有田憂田」。また屋敷が有ったら、大きな立派な家が建ったならば、それは嬉しい事ですが、同時に「火事にならんか」「泥棒に入られんか」と次から次に心配事が増えてくる。有れば結構な事と思うけれども、持っている人には持っている人の悩み、手に入れると手に入れただけの悩みが出てくるものです。更にこのお経の続きには、「無田亦憂、欲有田(むでんやくう、よくうでん)・無宅亦憂、欲有宅(むたくやくう、よくうたく)」と説かれます。田んぼが無ければ亦憂い、田んぼ有ればと欲する。家が無ければ亦憂い、家が有ればと欲するという意味です。

 

 有田憂田 有宅憂宅 無田亦憂 欲有田 無宅亦憂 欲有宅

 

 ただ単に人間は強欲だと言う事ではありません。どれだけのものを手に入れたとしても悩み事、憂い事は次から次へと出てくるものです。或いはこの人生、生きて行く上でどんな道を辿ったとしても、どんな選択をしたとしても悩み憂いから決して離れる事はないというのが人間であり、又無ければ無いで欲や憂いが出てくると説かれるのです。19gogatu

 お金が有る事が幸せだ。「高収入」=「成功者」と言うのは一時のまやかしとも言われます。世界有数の大富豪者になったビル・ゲイツさん。マイクロソフトという会社を作った方です。現代のI・T社会の先駆けとなったソフトウェアを作って、巨万の富を得た方です。そのビル・ゲイツさんが「金持ちで得する事はあまりない」と言っておられます。お金を得る為に時間や人、家族を犠牲にして、それだけ仕事をしてきたその結果のお金。振り返ってみたら、「もう少し自分の為に時間を使えば良かった」、「家族との時間を大切にしておけば」と色々憂い事は出てくるものです。今すでに満ち足りている事に感謝し、現状を喜ぶ事で幸せを感じられるものです。今いる自分の立場を喜ばせていただき、お念仏申して過ごして参りましょう。

和尚のひとりごとNo152「新たな出会い よき縁に」

人生は縁であり、縁に始まり縁によって終わると言います。「袖触り合うも多生(たしょう)の縁」という諺(ことわざ)があります。「多生」とは仏教語で、生まれ変わり死に変わり、何度も何度も生まれ変わり死に変わりしてという意味で、前世からの縁という事です。前の世からの縁として「宿縁(しゅくえん)」という言葉もあります。宿とは以前からのという意味です。ですから「宿縁」とは前の世からの御縁です。サッと袖が触れ合っただけというのも前の世からの縁による。また一樹の陰に宿るも、一河の水、河の水を汲ませて戴くのも御縁です。夏の暑い日に一本の樹の下の陰で休ませていただくのも、或いは又、河の水を掬い取って飲ませていただくのも御縁です。

 四月は入学式や入社式などがあり、新たな出会いや御縁に巡り合う人も多い季節です。自分で選択した19sigatu道であっても自分の都合の良い事ばかりではありません。気に入らない事や辛い事もあり、辛抱して色々な試練に打ち勝って世間の荒波を乗り越えていかねばならないのがこの世です。お釈迦様はこの人間世界を忍土(にんど)と示されました。辛い事や苦しい事に巡り合っても耐え忍んでいかなければならない世界であると説かれたのです。しかし忍土である人間世界であっても人間として生まれた事は宿縁による有り難いものであるとお釈迦様は説かれます。お釈迦様はある時に、大地の砂を掴んで「この手の中の砂の数と大地の砂の数とではどちらが多いか」と弟子に尋ねられました。「はるかに手の中の砂の方が少ないです」と弟子が答えると「その通りである。この数え尽くす事の出来ない大地の砂というのは、この世に命恵まれたものの数。その中で尊くも今、人間として生まれる事の出来た者は僅かこの一握りの砂の数である」そして今度は、この手の中の砂をもう片方の親指の爪の上にパラパラとかけていかれました。その殆どは大地へ落ちてしまいましたが極僅かだけ爪の上に残りました。「せっかく人間としての命をいただいても、無駄に過ごしてしまう者もいる。しかし正しい信仰に出遇い、その道を歩む事の出来た者はこの僅かに残った爪の上の砂の数である」とおっしゃられました。正しい信仰の道とは浄土宗では南無阿弥陀佛のお念仏です。辛く苦しみがある忍土であっても阿弥陀様やご先祖様が見守ってくださっている。その様にお受け取りいただき、お念仏の御縁に今、出遇わせていただいた事を共々に喜ばせていただき、日々お念仏を申して過ごして参りましょう。

和尚のひとりごとNo149「寒さ越え 山笑うころ 春彼岸」

春山の草木が一斉に芽吹き出し、山全体が明るく感じられる様になり始めました。春になるとどことなく山が笑っている。そんな様子を感じると気分も明るくなり、心が浮き立つ心持ちになります。木々が芽吹いてくると、虫や動物たちもゾロゾロと動き出し始めます。野山が益々賑やかになり、あちらこちらから鳥たちの鳴き声も聞こえて参ります。

 

 山鳥のホロホロと鳴く声聞けば 父かとぞ思う 母かとぞ思う(行基菩薩)

 

 山鳥がホロホロと鳴く声を聞いた時、もしかするとその山鳥の声は遠く離れている父が呼ぶ声か、或いは母が呼ぶ声か。その様に遠く離れた人に想いを寄せていただくと、何とも言えない懐かしい気持ちになるものです。この歌を詠まれたとされている行基菩薩は奈良時代に活躍された僧侶で、近畿地方を中心に貧民救済や治水、架橋など社会事業、社会福祉事業を熱心に行いました。今でも行基菩薩が造ったとされる溜め池や橋、お堀などが各地に遺っており、今日でもその場所に住む人々の生活には必要不可欠なものとなっております。19sangatu

 大阪市東住吉区に「行基大橋」という行基菩薩が造ったとされる橋があります。大和川を渡る国道26号線上の四車線ある立派な橋です。しかし行基菩薩が架けたという史実はなく、そもそも現在の道が出来たのは江戸時代中期以降で行基菩薩の居られた時代には道すら無かったとされております。昭和になってから最寄りのバス停は「矢田行基大橋」と名付けられ、近くの郵便局は「東住吉行基橋局」と、近年になってから行基菩薩を偲ぶ地名が付けられているそうです。地元には「行基菩薩安住之地」という石碑があり、また古くは「行基池」という溜め池があった為、近辺に行基菩薩の地名をこぞって付けたと言われています。何はともあれ、行基菩薩の弟子や孫弟子の働きが行基菩薩の功績に転じたのでしょう。橋が無ければ向こう岸へは渡れない。何とかして向こう岸に渡りたい。その地域に住む人々の願いを適えるべく立派な橋を架けられた。そこには菩薩と尊称されるお方の慈悲の心があり、何の見返りも利権も求めない、ひたむきに尽力された姿が伺われます。

 今住む世界を「此岸(しがん)」と言い、仏様の在します世界を「彼岸(ひがん)」と頂戴します。亡き人の居られる彼岸に往くには、その国土を創られた阿弥陀様の名前を呼ぶだけです。南無阿弥陀佛とお念仏を申し、阿弥陀様の御力、他力によって向こう岸へ渡らせていただけるのであります。この世で縁あった方とまた会える、今は向こう岸から見てくださっている。その想いを春に鳴く山鳥に馳せ、日々共々にお念仏申して過ごして参りましょう。

和尚のひとりごとNo146「水に源あり 樹に根あり」

 

 アメリカの某州立大学で生物学者が面白い実験をしました。砂を入れた小さな四角い箱の中で、水を与えながら一粒のライ麦を育てます。四ヶ月後に砂をふるい落とし、ライ麦の根がどれ位張り巡らされているかを計測しました。その結果、根毛や顕微鏡でしか見えない根の最細部をも含めると、何と一万一千二百キロメートルの長さになっていたというのです。風にそよぐ一本のライ麦がその貧弱な体を支える為に、やがて実を結ぶ為に一万キロメートル以上もの根を隅々に張り巡らせて、必死で水分や養分を吸い上げていたのです。ではこのライ麦に比べて数十年も生きていく、我々人間の命を支えているものは一体何なのでしょうか。私達人間が生きていく為には、食べ物は勿論、空気や水、太陽の光など肉体を支える為のものが必要です。また人間は精神を持った存在ですから、希望、信念、勇気や愛情といった心を支えるものも必要です。そしてまた、長い人生の中で無常観や無力さを知った時には、しっかりとした宗教というものも必要になります。19nigatu

 肉体は父母から戴いた身体であります。中国浄土教の祖であります善導大師が書かれた『観無量寿経疏』序文義に「すでに身を受けんと欲するに、自らの業識(ごっしき)を持って内因(ないいん)となし、父母の精血(しょうけつ)をもって外縁(げえん)となして因縁和合(いんねんわごう)するが故にこの身あり」と説かれています。業識とは母体に宿る人間の主体となるもので、業(行為)によって生じる識(物事を識別する事の出来る心の働き)です。つまり父と母の肉体的な縁があって、その和合によって前の世からの自らの業(行為)による個別の意識が内に宿ると説かれるのです。この業識が次の世に生まれ変わっていくとされております。兎にも角にも父母の肉体がなければ今の自分は存在しない事になります。ですから先の善導大師の書物には「この義をもっての故に父母の恩重し」と説かれます。更に父母にも又その父母が居られます。遡れば多くのご先祖様がしっかりと生きてくださったからこそ今の自分が居る事になるのです。

 

   今日の幸せ先祖のおかげ 尊い命大切に

 

   咲いた花見て喜ぶならば 咲かせた根元の恩を知れ

 

 肉体はいずれ無くなります。今この世における人間の寿命というものは限られているからです。しかし命尽きたらそれで全て終わりではなく、南無阿弥陀佛とお念仏をお称えしたならば、命尽きた後、阿弥陀様にお迎えに来ていただいて必ず西方極楽浄土に往生させていただけるというのがお念仏の御教えです。お念仏を申すという行為が蓄積され、それが業識となり次の世、西方極楽浄土に参らせていただくのです。冬になると枯れてしまう植物ですが、実は大地に根を下ろし、コツコツと何万メートルという細い根を張り巡らせて実を付ける為の準備をしています。私達も命尽きた後には、お浄土に往生させていただくというその実を結ぶ為に、植物がしっかりとした根を張り巡らせているが如く、日々共々に南無阿弥陀佛のお念仏の功徳(くどく)を積ませていただきましょう。

和尚のひとりごとNo144「お念佛からはじまる幸せ」

 

 昔の方が「幸せ」の三要素として、「幸せ」に成る為の三つの事柄を挙げておられます。それは「身」「命」「財」の三つです。「身」とは「健康」で、「命」は「長生き」、そして「財」は「お金」です。

 

 幸せはいつも三月花の頃 お前十九でわしゃ二十歳

死なぬ子三人親孝行 使うて減らぬ金百両 死んでも命が有るように

 

 「身」「命」「財」は誰もが願う事ではありますが、全てとなるとなかなか叶わぬ事であります。それでも今の日本はどうでしょうか。有難い事に世界一の長寿国です。住む家も一日中春の陽気な室温に保つ事も出来ます。皮肉な事に寝たきりになったとしても命を延ばす高度な医療技術も御座います。贅沢さえ言わなければ何不自由なく暮らせる国にまで栄えました。しかし人間の欲望は尽きぬものであります。お釈迦様は「人間の欲望というものは、たとえヒマラヤの山を黄金に変えたとしても満たされる事はない」と仰られました。ヒマラヤはインドの北部、チベットに有る世界一高い山です。その世界一高い山を全て黄金に変えたとしても一人の人間の欲望をも満足させる事は出来ないものであると示されました。お金、財産があるが故に身を持ち崩し夫婦別れをする人も居れば、お金が無くても夫婦仲良く幸せに暮らしている人も居ます。人の生き方はお金の多少、有る無しで決まるものではありません。その事は「身」と「命」にも言える事でもあります。結局は持つ人の心次第、受け取って行く側の器一つで毒にも薬にもなるのです。

 

 持つ人の心によりて宝とも 仇(あだ)ともなるは黄金(こがね)なりけり

 

 この御歌は昭憲皇太后、明治天皇の皇后がお詠みになられた御歌です。人生は、目に見える「物」の世界と、目に見えない「心」の世界が一つになって成り立っています。目に見える物資的なものが「物」の世界で、信仰や精神的な支えとなるものが目に見えない「心」の世界です。しかし今の世の中はお金が物言う世界と言われる程、金と物の世の中で人間の「心」が全く失われた社会と言われます。「物」で栄えて「心」で滅びる時代であります。「物」と「心」が程よく調和されてこそ始めて世の中は暮らしよくなるものです。19itigatu

 お念佛を毎日称えたとしてもお金持ちになったり、健康や長生きが保証されるものではありません。しかしお念佛を申して仏様に思いを寄せ、ご先祖様のお陰で今の生活があるのだと思い定めていただければと思います。共々にお念佛の日暮らしをさせていただいて豊かな心を育ませていただき、今年一年幸せ、今日一日幸せと思える日々を過ごして参りましょう。

和尚のひとりごとNo142「南無阿弥陀佛 いまを生きる」

 

 南無阿弥陀佛のお念仏は最期臨終の夕べ、阿弥陀様に迎えに来ていただいて西方極楽浄土に往き生まれさせていただくという教えです。ですから死後の事を説く、今を生きる人々には無用の教義だと古くから揶揄する方もおられたそうです。しかし「後生の一大事」と後の世の事をキチッと思い定めてこそ、今を生き切れるのであります。

 『無量寿経』の一節には「老病死を見て世の非常を悟る。国と財と位を棄てて山に入りて道を学す」と説かれております。これはお釈迦様の伝記に習った修行者のあり方です。先ずは老・病・死の有り様を見てこの世の無常をさとり、国や財宝や王位を捨てて、悟りへの道を学ぶ為に山に入り修行していくのです。私たちも先ず老・病・死の有り様を見て我が事であるとしっかり受け止めてこそ、今の生活が充実出来るのであります。しかしどうでしょうか?「老を嫌い、病を恐れ、死を隠す」姿が現実の我々の日常ではないでしょうか?12gatu

 江戸時代に谷風(たにかぜ)という関取が居られました。ある日の事、道中で小さな小僧に出会い、「関取、一番取りましょう」と言ってきた。「何じゃ小僧!ワシを谷風と知っての事か?」と言うと「知っていればこそ、一番取り組もうと言ったのだ」と言い返された。「おのれ生意気な小僧め!サァどこからでもかかってこい」と大声で谷風関が怒鳴りながら取り組んだところ、この小僧なかなかの腕っ節の強さであります。谷風は満身の力を出しましたが遂に草むらの中に投げられてしまいました。驚いた谷風、「小僧しばらく待った!この谷風は天下無敵と言われたものじゃが、お主はワシよりも強い。一体お前は何者じゃ?」すると小僧は、「私はあなたよりも強いですよ。あなたは“谷風”、私は“無常の風”ですもの」と言われたそうです。これは一つの笑い話ですが、仏法の真理、普遍的な教えが説かれた笑話であります。“無常の風”にかかってはどんな関取、英雄豪傑、力持ちでも敵いません。しかし無常の世の中、その無常を我が事であるとしっかり受け止め、そしてこの世を生ききった先にはお浄土が有ると思い定めれば、死生(ししょう)ともに煩いはないのであります。

 またお念仏は、お浄土で縁あるお方と再会出来るという御教えでもあります。更にお浄土に往けば引接縁(いんじょうえん)と言ってこの世に残してきた縁ある人を同じ西方極楽浄土へと導く事が出来ます。法然上人は「先に生まれて、後を導かん、引接縁はこれ極楽の楽しみなり」とお言葉を遺されております。つまりお浄土に往ったならば「引接縁」こそが一番の楽しみであると仰られたのです。亡き人とまた再会出来るという事、或いは自分が先に命尽きても残してきた人とまた会えるという楽しみがある事は、死という苦しみから解放される最上の教えであります。無常の世の中でありますが、その先には無常ではない常住のお浄土の世界がある。亡き人ともまた会えるという事を共々に生きがいにしていただき、今をしっかり生き切りましょう。