和尚のひとりごとNo683「法然上人御法語後編第十七」

深信因果(じんしんいんが)

十重(じゅうじゅう)を持(たも)ちて十念をとなえよ。四十八軽(しじゅうはちきょう)をまもりて四十八願(しじゅうはちがん)を頼むは、心に深く希(こいねが)う所なり。
おおよそいずれの行(ぎょう)を専(もは)らにすとも、心に戒行(かいぎょう)をたもちて浮嚢(ふのう)を守るがごとくにし、身(み)の威儀(いぎ)に油鉢(ゆはつ)をかたぶけずば、行として成就(じょうじゅ)せずという事なし。願として円満せずという事なし。
然(しか)るを我等(われら)、或(あるい)は四重(しじゅう)を犯し或(あるい)は十悪(じゅうあく)を行(ぎょう)ず。彼も犯し此(これ)も行ず。一人(いちにん)としてまことの戒行を具(ぐ)したる者はなし。
「諸悪莫作(しょあくまくさ)、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)」は、三世(さんぜ)の諸仏の通戒(つうかい)なり。善を修(しゅ)する者は善趣(ぜんしゅ)の報(ほう)を得(え)、悪(あく)を行(ぎょう)ずる者は悪道(あくどう)の果(か)を感(かん)ずという、この因果の道理を聞(き)けども聞(き)かざるがごとし。はじめて言うに能(あた)わず。
然れども、分(ぶん)に随(したが)いて悪業(あくごう)を止(とど)めよ。縁(えん)にふれて念仏を行じ、往生を期(ご)すべし。

勅伝第32巻

koudai18

 


【言葉の説明】
深信因果(じんしんいんが)
深く因果の道理を信じること。とりわけ善因楽果、悪因苦果の法則を深く信じること。

十重(じゅうじゅう)
十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)のこと。『梵網経』に出ており、十波羅提木叉(じゅうはらだいもくしゃ)、十波羅夷(じゅうはらい)とも。菩薩が守るべき十種類の戒。大乗菩薩は決して犯さざるべきものとされ、伝統部派の波羅提木叉の中の波羅夷罪に相当する。これは犯せば積み重ねた修行の成果は失われ、僧伽(教団)から追放される。
①殺(せつ)は有情を殺す事。②盗(とう)は盗む事。③婬(いん)は性交渉を持つ事。④妄語(もうご)は噓をつく事。⑤酤酒(こしゅ)は酒を売る事。⑥説四衆過(せつししゅ)は出家・在家を通じて仏教徒の犯した罪を吹聴する事。⑦自讃毀他(じさんきた)は自分を褒め、他人をけなす事。⑧慳惜加毀(けんじゃくかき)は物惜しみして他へ施さず、乞う者をけなす事。⑨瞋心不受悔(しんじんふじゅげ)は怒りのあまり他者からの謝罪を受け入れない事。⑩謗三宝(ほうさんぼう)は仏・法・僧の三宝をそしる事。これら10種を行わぬように心がけるのが十重禁戒。

四十八軽(しじゅうはちきょう)
上の同じく『梵網経』に説かれるが、こちらは犯しても罪を懺悔する事で滅罪が果たされる軽い罪を戒めた戒。

四重(しじゅう)
四つの波羅夷罪(はらいざい)の事。伝統的に波羅夷(pārājika、パーラージカ)には殺生・偸盗 ・邪淫・妄語の四つを数える。特にここでの妄語は、自ら覚っていないにも関わらず、阿羅漢になった、無上の正覚を得たと豪語する事を指す。これらを犯すと教団追放になる重罪である。

十悪(じゅうあく)
十種の悪行。殺生(せっしょう、殺す事)、偸盗(ちゅうとう、盗む事)、邪婬(じゃいん、不倫)、妄語(もうご、嘘をつく事)、両舌(りょうぜつ、仲たがいさせる言葉)、悪口(あっく、暴言)、綺語(きご、無意味な言葉)、貪欲(とんよく、貪り)、瞋恚(しんに、怒り)、邪見(じゃけん、因果の否定という見解)。

諸悪莫作(しょあくまくさ)、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)
七仏通戒偈「諸悪莫作、衆(しゅ)善奉行、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」より。訳により「衆善奉行」の「衆」が「諸」となるが意味は同じ。「すべての悪を為すことなく、多くの善を実行せよ、自らの心を浄めよ、これが諸仏の教えである」の意。過去七仏の教えをまとめた戒の根本とされる。


【現代語訳】
およそどのような修行を専心に行なおうとするにしても、心に戒を保ち実践するには、あたかも水中でうきぶくろを守り手放さぬように心がけるべきであり、また身体の立ち居振る舞いについては、油を入れた鉢を持って一滴もこぼさずに進むように注意深くあるべきであり、そのように行って修行として成し遂げられぬことはなく、また願い叶わぬ筈がありません。
そうは言っても私たちは、時には四重(しじゅう)という思い罪を犯すばかりか、十悪(じゅうあく)という悪行さえも行います。あれも犯し、またこれも犯してしまう。実にただの一人も本当に戒を具足し実践できる者はありません。
ところで「諸悪莫作(しょあくまくさ)、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)」(諸々の悪を為す事なく、諸々の善を行ぜよ)というのは、三世の諸仏が一貫して説かれた大切な戒であります。「善き行いを実践する者は安楽なる境涯という結果を受け、悪しき行いを実践する者は悩ましき境涯に堕ちるとい報いを得る」この因果応報のことわりを耳で聞いても、まるで聞いていないが如くであります。ここに改めて申し上げるようなことではありませんが。
このような中でも、今の能力や環境が許す範囲でも悪しき行いは止めなさい。そのご縁があるならば念仏を行い、往生への願いを起こしなさい。


ことは僧俗を問わない。
戒行は仏法を行ずる私たちにとりまことに大切なものであり、因果のことわりもまた同様である。たとえその通りに守れないとしても、出来る範囲で守り、念仏を称えよ、往生を願え。
力強い法然上人のお言葉です。