和尚のひとりごとNo607「法然上人御法語後編第十三」

無比法楽(むびほうらく) 勅伝第25巻
比べるものなき、仏の教えの有難さ
【原文】
一々(いちいち)の願の終わりに、「若(も)し爾(しか)らずば正覚(しょうがく)を取らじ」と誓(ちか)い給(たま)えり。然(しか)るに阿弥陀仏、仏になり給(たま)いてよりこのかた、すでに十劫(じっこう)を経(へ)給えり。当(まさ)に知るべし、誓願(せいがん)虚(むな)しからず。然(しか)れば、衆生(しゅじょう)の称念(しょうねん)する者、一人(いちにん)も虚しからず往生する事を得(う)。もし然(しか)らば、誰(たれ)か仏(ほとけ)に成り給える事を信ずべき。
三宝(さんぼう)滅尽(めつじん)の時(とき)なりといえども、一念(いちねん)すればなお往生す。五逆(ごぎゃく)深重(じんじゅう)の人なりといえども、十念(じゅうねん)すれば往生す。いかに況(いわん)や三宝(さんぼう)の世(よ)に生まれて五逆を造らざる我(われ)ら、弥陀(みだ)の名号(みょうごう)を称(とな)えんに、往生疑うべからず。
今この願に遇(あ)える事は、実(まこと)にこれおぼろげの縁(えん)にあらず。よくよく悦(よろこ)び思(おぼ)しめすべし。たといまた遇(あ)うといえども、もし信ぜざれば遇わざるがごとし。今深くこの願を信ぜさせ給(たま)えり。往生疑い思(おぼ)しめすべからず。必ず必ず二心(ふたごころ)なく、よくよく御念仏(おねんぶつ)候(そうろ)うて、このたび生死(しょうじ)を離れ、極楽に生(う)まれさせ給(たま)うべし。
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 無比法楽(むびほうらく)
「無比」は、他に比べるものがないほど、
「法楽」は、仏の教えを信受し、味わい、行ずることから生ずる楽しみのこと。

「若(も)し爾(しか)らずば正覚(しょうがく)を取らじ」
修行時代の阿弥陀仏である法蔵菩薩が、衆生救済の為に立てた四十八願のいちいちについて、もしその願が成就しなければ悟り開くまいと誓った事。


三宝(さんぼう)滅尽(めつじん)の時(とき)
法滅に同じ。隋代の那連提耶舎(なれんだいやしゃ、ナレーンドラヤシャス)訳になる『大集経(だいじっきょう)』月蔵分(がつぞうぶん)などに説かれている法滅思想によれば、仏教は正法、像法、末法の三時を経て三宝の滅尽を迎え、仏教そのものが失われるという。それは

五逆(ごぎゃく)深重(じんじゅう)の人
五逆罪(五つの思い罪)のこと。『倶舎論』によれば、母を殺めること(殺母)、父を殺めること(殺父)、悟りを開いた仏弟子を殺めること(殺阿羅漢)、仏の身体を傷つけ出血させること(出仏身血)、修行者の和合を破ること(破和合僧)を指す。



(彼の阿弥陀如来がかつて因位の菩薩であった頃、衆生救済を目的とした四十八の誓願を誓われました)
その願のひとつひとつの最後にこう誓われています。
「もし私がこのように立てた願いが実現しないならば、正しい本当の覚りは開くまい」。
そして彼の阿弥陀仏は、正覚を得て仏陀となられてより、今既に十劫にも及ぶ長い年月が経っています。まさしく知るべきであります。彼の仏の誓願は中身の伴わない絵空事(えそらごと)ではないという事を。だからこそ衆生の中で、念仏を称える者は、一人残らず浄土への往生を得るのであります。もしそうでないとしたら、誰が彼の菩薩がすでに仏となったという事を信じられるでありましょうか?
仏教において尊重し護持すべき三つの宝が失われてしまう時勢でさえも、たった一度、念仏をすれば往生します。五つに数えられる大変重い罪を犯してしまう人でさえも、十回の念仏で往生を遂げます。ましてや仏教の三つの宝がいまだ存在する世界に生を受け、五つの重罪を犯すことのない私たちが、阿弥陀仏の御名を称えれば往生できるという事を、疑うべきではありません。
今まさにこの本願に出遭えた事は、誠にありきたりなご縁によるものではないのです。この事を心に刻み、悦びの念をお持ちなさい。そしてたとえ尊きご縁によりて本願に出遭えたとしても、もしそれを信ずる事がなければ、本願に出遭わないのと同じであります。今心からこの本願を信じているあなたは、ご自身の往生がかなう事に疑いの念を持ってはなりません。必ずこの本願に背く心を持つ事なく、よくよくお念仏を申しなさって、今生の生を最後として再び迷いの世に戻ることなきように、極楽浄土で新たな生命(いのち)を得て下さい。

三宝が確かにあり、尊き仏法へのご縁を結べる事自体が、有難きことである。ましてや阿弥陀仏の尊き本願に出遭えることが如何に得難き僥倖であるか。
改めてこのことに思いを馳せる時、誠の信心の大切さを実感するところであります。