和尚のひとりごとNo244「法然上人御法語第二十二」

前篇 第22 無常迅速(むじょうじんそく)gohougo

~夕べに結ぶ命露の如く~

 

【原文】

それ、朝(あした)に開(ひら)くる栄花(えいが)は夕(ゆうべ)の風(かぜ)に散り易く、夕べに結ぶ命露(めいろ)は、朝の日に消え易し。これを知らずして常に栄えん事を思い、これを覚(さと)らずして久(ひさ)しくあらん事(こと)を思う。

然る間、無常の風ひとたび吹きて、有為(うい)の露(つゆ)、永(なが)く消えぬれば、これを曠野(こうや)に捨て、これを遠き山に送る。屍(かばね)は遂に苔(こけ)の下に埋(うず)もれ、魂(たましい)は独(ひと)り旅の空に迷う。妻子眷属は家にあれども伴わず、七珍万宝(しっちんまんぼう)は蔵(くら)に満(み)てれども益(えき)もなし。ただ身(み)に随うものは後悔(こうかい)の涙(なみだ)なり。

遂に閻魔(えんま)の庁(ちょう)に至(いた)りぬれば、罪の浅深(せんじん)を定め、業(ごう)の軽重(きょうじゅう)を勘(かんが)えらる。法王(ほうおう)、罪人(ざいにん)に問(と)うて曰く、「汝(なんじ)、仏法(ぶっぽう)流布(るふ)の世(よ)に生まれて、何(なん)ぞ修行せずして徒(いたずら)に帰(かえ)り来(き)たるや」と。その時(とき)には、我等いかが答(こた)えんとする。

速やかに出要(しゅつよう)を求めて、虚しく三途(さんず)に還(かえ)ることなかれ。

(勅伝第32巻・登山状)

dai22

 

【ことばの説明】

無常迅速(むじょうじんそく)

「無常」とは人の世を含めた万物が常に生滅(しょうめつ)変化を免れず、移り変わっていくこと。

その様相が私たちが思う(期待する)より遥かに早いことを「無常迅速」と表現している。

寺院で時を知らせる合図として叩かれる板木(ばんぎ)に記されている文言が、「生死事大、無常迅速、各宣醒覚、謹勿放逸(しょうじはじだいにして むじょうじんそくなれば おのおのよろしくせいかくして つつしんでほういつなることなかれ)」

生き死にの問題は最も大切なことであり、世の移り変わりが迅速であれば、皆それそれがそのことに眼をそらさずに、怠ける事なく精進すべきである(『六祖壇経』)。

釈尊の遺誡として伝えられるのが次の一節である。

「さあ、修行僧たちよ、わたしはいまお前たちに告げよう、

もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠けることなく修行を完成なさい。」(中村 元訳)。

全てが無常であれば、今この瞬間に生死を離れる心を持つことこそが肝要であるとの教えであり、仏教の根幹である。

 

無常の風

死のこと。吹く風が花を散らすことに喩えて、生命が果てることを表現する。

 

有為(うい)

因縁(原因と条件)によって成立し、消滅変化する在り様を表現する。有為は刹那滅(せつなめつ)であるとされ、一瞬たりとも同じ姿を留めていない。原語はsaṃskṛta(サムスクリタ)で、諸行無常の諸行(saṃskāra、サンカーラ)と同じ語源から発している。諸行は有為であり無常である、つまりこの世のあらゆる現象は、原因や条件が重なった結果現われているものであり、実体として常に存在し続けられるものではない。従ってそれを求め、執着することが苦悩を生む。

有為に対して「無為(asaṃskṛta、アサムスクリタ)」を立てる際は、覚りの境地である涅槃や、物事が運動するのに必要な空間である虚空などをそれに当てるが、それは当初からあった考え方ではない。無為とは因果による生滅変化を離れた在り様のこと。

 

閻魔(えんま)

yama(ヤマ)と呼ばれた神格で、古く『リグ・ヴェーダ』時代には、史上で最初の死者であり、死者の国である天界を司る王となったとされたが、次第に死者の審判者としての性格が顕著となる。仏教では地獄を掌つかさどる閻魔大王と、欲界天の一である夜摩天(やまてん)の二者がそれに相当する。

仏教経典中に現われる古い例は『増一阿含経(ぞういつあごんぎょう)』で、生前の悪業の報いで地獄に堕ちてしまった者が閻羅王(えんらおう)の前で罪業を糾弾される様が描かれている。

 

出要(しゅつよう)

出離の要道。生死を繰り返す輪廻から解脱する方法のこと。

 

【現代語訳】

そもそも、朝に咲いたいとも艶(あで)やかなる花も、同じ日の夕刻に吹く風に散り易く、夕暮れ時の草木を彩る命の露も、翌朝(よくちょう)の朝日によって散り散り(ちりぢり)となることまことにた易い。これを知らないからこそ、永遠(とわ)に続くであろうと身の繁栄を期待し、これを理解しようとしないからこそ、いつまでも寿命尽きることなく、生きていたいなどと願うのです。

そうこうしている間に、ひとたびでも無常の風が吹き来り、因縁和合の仮の姿、儚(はかな)き露のような生命が断たれてしまえば、私たちもいずれは果て無き荒野に打ち捨てられ、あるいは遠い山奥に送られることでしょう。屍(しかばね)もとうとう苔(こけ)むす土に埋められ、魂は孤独にあてなき旅路に迷うことになります。妻や子供や、親兄弟も、たとえ親類縁者一堂に会するが如く、一つ屋根の下に暮らしていたとしても、死にゆく旅路において付き添ってくれることは決してありません。蔵には金銀財宝溢れていたとしても、そこでは何の役にも立たないでしょう。その時にただ我が身を苛(さいな)む思いは後悔の念のみであります。

さていよいよ閻魔大王が待つ審判の場に立たされるならば、我が身が生前重ねてきた悪しき行いの深さが見定められ、善悪の行いの重さが量られます。大王が罪人である私たちに尋ねてこのように糺(ただ)すことでしょう。

「汝は、釈尊が説かれた教えが広まる世界に生を受けながら、何故、道を修めず虚しくも再びこの場に戻って来たのであるか」

そう問われたとき、私たちはどのように答えたらよいのでしょうか?

一刻も早く、この迷いの生死輪廻の世界を解脱する道を求めて、もはやふたたび虚しくも三悪道に立ち返ってくることのないようにしなければなりません。

 

 

ブッダの言葉を引用します。

何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?ー世間は常に燃え立っているのにー。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?-『ブッダの真理のことば(ダンマパダ)』(中村元 訳)より

無常なる世界に生を受け、まさに無常の風そのものとして生きる私たちにとり最も大切なこと、それは無常であるからこそ、与えられた一瞬一瞬を無駄にすることなく、大切にそして懸命に生ききることだと思います。一寸先は闇と言われる如く、今年、生を謳歌していた者も、翌年には死出に旅立っているかもしれない、確実なことを言えば、今この瞬間に生きている私たち、これらの愛おしい人々の大半は、百年後には鬼籍の人となっているでしょう。

六道輪廻と言われる苦しみのサイクルから抜け出す道、凡夫であるからこそ、迎えとられていく西方浄土への往生の道は、この瞬間にも釈尊によって私たちに示されている。

生死輪廻の世界を解脱する道を心から願い、仏の示された道を歩んでいくべきである、法然上人の御言葉であります。

合掌