和尚のひとりごとNo236「たまには心も雨やどり」

 

  お念仏を修めていく方法、念仏信者が守るべき生活態度の一つに無間修(むけんじゅ)というものがあります。南無阿弥陀佛のお念仏を途切れる事なく毎日申し続けていくという事です。怠け心を治し、勇んで仏道に精進する心を育てさせていただくのが無間修(むけんじゅ)という修行です。法然上人はこの無間修を特に大切に思われていたようです。2020rokugatu

 人の心は絶えずうつろい易く、心穏やかに居続けることは難しいものです。浄土宗の説く称名念仏は、いつでもどこでも唱えて良いお念仏です。

行 住 坐 臥(ぎょう じゅう ざ が)と言って、歩いている時でも、座っている時でも、寝ている時でも、休んでいる時でも、ただ口に「南無阿弥陀佛」と唱えるだけで良いのです。心身ともに清らかな状態でなくても、晴れの日も雨の日も、嬉しい時も悲しい時も「南無阿弥陀佛」と唱えるのです。

 罪業を重ねずに日々を送れるのならば、それに越した事はありません。しかし*凡夫(ぼんぶ)の習い、常に貪瞋(とんじん)煩悩と言って欲張りな心や、腹立ちの心が起こる我が身であります。「随犯随懺(ずいはんずいさん)」と言って、犯す罪に対し、いつも懺悔(さんげ)して我が身の程を振り返る必要が御座います。そして腹が立ってもそのままでお念仏を間断(かんだん)なく、絶やさず相続し、欲の心が起こってもそのままで、お念仏を絶やす事なく申し続ける事が大切であります。人間とは勝手なもので、商売が繁盛すれば「忙しくて念仏など申せぬ」と言い、貧乏すればそれはそれで、「念仏どころではない」とお念仏申す事に対して何かを怠ける材料にしてしまうものです。全て自分の都合のいい様に過ごしてしまう私達です。例えば笊(ざる)で水を汲む事は可能でしょうか?笊は水を切る道具です。ですから水を汲もうとしても不可能です。桶に水を張って笊ごと浸(つ)からせるしかありません。それと同じく、煩悩が常に漏(も)れ出る我が身は、佛様の中に、この身このまま浸(つ)からせてもらうしかないのです。腹立ちや欲深い心があっても、ありのままで阿弥陀様の懐(ふところ)に飛び込み、身構えることなく、雨の日は雨宿りする様に、ゆっくりと自分のペースで続ける事が大事であります。

 

 怠らず行かば*千里(ちさと)の果ても見む 牛の歩みの よし遅くとも(『武家百人一首』)

 

 怠(おこた)らずに行けば、遠いと思われる千里(せんり)の道の果ても、いずれ見えるであろう。喩え牛の様に歩みが遅くても。のんびりとありのままの姿で、共々にお念仏を申して過ごして参りましょう。

 

 

*凡夫(ぼんぶ)

仏教の理解が乏しく、修行実践もおぼつかない、凡庸で愚かな人のこと。特に浄土の教えにおいては、自らの為した悪業によって生死輪廻から抜け出せない存在を指し、凡夫とはこの娑婆世界に生きる私たち自身のことであると理解しています。

 

*千里(ちさと)

1里は現在の約3.9キロの相当します。

文明開化の時代に新しい度量衡が制定されるまで一般的だった距離の単位で、昔の人が1時間かけて歩ける距離に由来すると言われています。