和尚のひとりごとNo181「顕道上人」

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玉圓寺蔵の掛け軸です。


浄土宗では”南無阿弥陀佛”の六字名号に大きな功徳を認めています。法然上人が師と仰がれた方に中国 唐の善導大師がおられます。大師の著書『観経疏』によれば、『南無と言うはすなわちこれ帰命(きみょう)なり、またこれ発願回向(ほつがんえこう)の義なり。阿弥陀仏と言うは、すなわちこれその行なり』とあります。この意味は、念仏を十分に称えた者は、浄土へ即得往生を遂げることができます。それこそが六字名号が表わす大いなる功徳であると記されています。


さて玉圓寺のこの名号は顕道上人によるものです。徳蓮社万誉顕道(とくれんじゃばんよけんどう)上人の活躍された時代はやがて幕末を迎える寛政年間のこと、一七九〇年は越中国(現富山県)に生まれ、のちには大僧正となり、朝廷より、「高顕真宗国師(こうけんしんしゅうこくし)」の諡号(しごう)を賜(たまわ)る事となりました。
出家してのち安城松平氏の菩提寺として知られる三河(現愛知県)大樹寺の隆也に学び、越中の大楽寺を経て、鴻巣の勝願寺の住持となりました。勝願寺(しょうがんじ)は浄土宗第三祖記主禅師(きしゅぜんじ)の創建に遡ると言われ、関東十八檀林にも数えられた御由緒寺院です。その後、孝明天皇より勅許、徳川十二将軍代徳川家慶公の推挙もあり、嘉永元年(一八四八)九月一九日、当時としても異例の若さである五十九歳にして知恩院七十一世門主に就きました。日本海沿岸地方からは初めての祖山御門主への就任であり、宮中とのつながりもそれは深かったと言われています。晩年はかつての大楽寺にて師の禅誉上人や御両親の追善法要を勤め、安政五年(一八五八年)五月十二日に往生を遂げたと言われています。

十夜会、彼岸会等の法要の時に座敷にお掛けすることもございますので、その際にはご覧下さい。