法然上人御法語第七

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第七 諸仏証誠

~諸仏による証明は決して虚しいものではない~

 

【原文】

六方恒沙(ろっぽうごうじゃ)の諸仏舌をのべて 三千世界に覆いて、「専らただ弥陀の名号を称えて、往生すというは、これ真実なり」と証誠(しょうじょう)し給うなり。これまた念仏は、弥陀の本願なるが故に、六方恒沙の諸仏、これを証誠し給う。余(よ)の行は、本願にあらざるが故に、六方恒沙の諸仏、証誠し給わず。

これにつけても、よくよく御念仏(おねんぶつ)候(そうろ)うて、弥陀の本願、釈迦の付属、六方の諸仏の護念を深く蒙(こうぶ)らせ給うべし。

弥陀の本願、釈迦の付属、六方の諸仏の護念、一々に虚しからず、この故に、念仏の行は、諸行に勝れたるなり。

(『勅伝 第三十二』)

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【ことばの説明】

六方恒沙(ろっぽうごうじゃ)の諸仏

「六方」とは、東・南・西・北・下・上の六つの方角で、六方であらゆる方向を表現する。

「恒沙」は「恒河沙(ごうがしゃ)」の略。恒河(ごうが=ガンガー)とはガンジス川、恒河沙はガンジス川の川辺にある無数の砂のこと、これは数量が無数(数えきれないほど多い)ことを指している。

従って「六方恒沙の諸仏」とは、四方と上下の六方向におわすガンジス川の砂の数にも喩えられるほど数多くの仏を意味する。

 

舌をのべて

「舌を伸ばして」の意。悟りを開いたブッダに備わる32種の優れた身体的特徴(三十二相)の一つに、舌が大きく長い(長広舌 ちょうこうぜつ)という特徴がある。仏たちはその長い舌を伸ばして、経典の言葉に偽りがないことを証明しているのである。

 

三千世界

三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)の略称。仏教的世界観において世界の最小単位は「小世界(一世界)」といわれるが、それぞれの世界が、中心にそびえたつ須弥山(しゅみせん)とその周りを囲む九山八海(九つの山々と八つの海)、さらにその外側にある四洲 (四つの大陸)、また天空の太陽や月などの天体を一通り備えた環境であると言われる。その最小単位の小世界がおよそ1000個集ったものを小千世界、この小千世界がさらに1000個集ったものが中千世界,この中千世界がさらに1000個集ったものが大千世界、すなわち三千大千世界である。

そしてこの三千大千世界が一人のブッダの教化が及ぶ範囲とされ、我々が住むこの小世界を包含する三千大千世界を別名娑婆世界(sahā サハ―)とも呼ぶ。ここはかつて釈迦仏が教化した範囲であり、ここより西方に位置する極楽世界が阿弥陀仏の教化する世界となる。

 

証誠(しょうじょう)

誤りなく真実であることを証明すること。

 

弥陀の本願、釈迦の付属、六方の諸仏の護念

阿弥陀仏の本願は『無量寿経』において明かされ、釈迦仏の付属は『観無量寿経』に説かれる。これは釈迦が最終的に仏の本意は念仏にあるとして阿難に付属したことをいう(選択付属 せんちゃくふぞく)。この場合の「付属」とは、教えを授け、後世に伝えるように託すことを意味している。

また六方の諸仏の護念は、『阿弥陀経』において説かれている、東・南・西・北・上・下の六方の諸仏が念仏する行者を護り、決して離れることがないことを言う。これは念仏者が極楽に往生を遂げる前に、この現世において得ることができる利益である。

 

【現代語訳】

六方に広がる全世界の仏たちが、その舌を伸ばして三千大千世界を覆い、「〈専ら阿弥陀仏の御名を称えることで往生を果たせる〉という教えは誤りなく真実である」と証言されています。また同時に念仏が阿弥陀仏の本願であるという理由から、その真実性が(同じく)六方世界の仏たちにより証明されているのです。(それに対して)念仏以外の諸行は本願ではないため、六方世界の仏たちは、(その教えが)真実であるとは証言されていません。

このことからも、念を入れて十二分にお念仏をなさり、阿弥陀仏の本願、釈尊仏の付属、六方世界の仏たちの御加護を深く受け入れて下さい。

阿弥陀仏の本願、釈尊仏の付属、六方世界の仏たちの御加護は、それぞれが意味のあるものなのです。それ故に、念仏の行は他の行に比べて各段に勝れているのです。

 

 

この一段が説かれたのは、念仏の教えに対する疑いを正して、正しい信へと導くためである。仏教では悟りへの妨げとなる心の働きを「煩悩」と呼び、その煩悩に98ないし108を数えるが、その中に「疑」がある。「疑」とは、凡夫が自分自身の見解に捉われて、仏の説示に対して十分な信を持ち得ないことを指している。

そしてここでは、阿弥陀仏の本願によって誓われた念仏(本願念仏)が、他のあらゆる行より勝れている所以が、”釈迦の阿難への付属”と”諸仏による証誠”によって示されているのである。ともに他ならぬ仏による証明であり、念仏が”虚しからざるもの”すなわち、必ず極楽への往生を遂げさせる”実あるもの”としてここに示されている。まさに凡夫の疑念をさしはさむ余地なきものとして。

華厳経にいわく「信は道元にして功徳の母となし」。

合掌