和尚のひとりごとNo189「咲いて散ってまた咲く準備」

 

散る桜 残る桜も 散る桜

 

 2020sigatuこの歌は、江戸時代に活躍された良寛上人という方が詠まれた辞世の句<死に臨んで詠まれた歌>です。今は、たとえどんなに綺麗に咲いている桜であったとしても、いつかは散ってしまうという意味です。それと同じ様に、我々人間もどんなに健康で元気に過ごしていても、いずれ命尽きる時がきます。その事をしっかりと、我がごととして受け止めておきましょうという事です。

 「良馬(りょうば)は鞭影(べんえい)に驚く」という言葉があります。「良馬」、良い馬と言うのは「鞭影」、鞭(むち)の影を見ただけで走り出すと言われます。鞭で叩かれて走る馬は普通の馬です。鞭で叩かれても走らない馬は「駄馬(だば)」と言われます。これを人に喩えて、他所(よそ)に吹いた無常の風を見て、自らの無常を悟っていく事が仏教を知る事だと言われます。無常を我がごとであると知る事は、今日のこの今、生(せい)ある事の尊さを知る事でもあると言い換える事が出来るからです。

 浄土宗の二祖、聖光(しょうこう)上人は「死を忘れざれば八万の法門を、自然(じねん)に心得たるものにあるなり。」と説かれました。「死」という事を常に忘れず、我がごととして受け止めていくという事は、八万もあると言われる仏様の御教えを全て心得たものと同様だという意味です。そしてこの聖光上人は「念死念仏(ねんしねんぶつ)」と、いずれ死んでいかねばならない我が身であるという事を常に忘れず心に刻み、「南無阿弥陀佛」とお念仏を申して過ごしていかれたお方です。

 しかしこの世で命尽きても終わりではなく、その次に往く世界があります。それが西方極楽浄土です。そしてその国へ往くには、阿弥陀佛という仏様に救っていただかねばなりません。何故ならば自分の力では往く事が出来ないからです。その為の手段が「南無阿弥陀佛」とお念仏を申す事です。「南無阿弥陀佛」と唱えたその声を聞いて、阿弥陀様がお迎えに来てくださるのです。その阿弥陀様の御救いの力を、他力(たりき)と言います。我々の力ではどうする事も出来ない後の世は、全て仏様にお任せすれば良いのであります。西方極楽浄土に往けば、蓮の台(うてな)に生まれさて頂けます。その為に、今、力のある時に「南無阿弥陀佛」と唱え、共々に往生させていただく為の準備をして過ごして参りましょう。

 

和尚のひとりごとNo188「法然上人御法語第十五」

前篇 第15 信行双修(しんぎょうそうしゅ)gohougo
~行が心をつくる~

【原文】
「一念(いちねん)十念(じゅうねん)に往生をす」といえばとて、念仏を疎相(そそう)に申(もう)すは、信(しん)が行(ぎょう)を妨(さまた)ぐるなり。「念々不捨者(ねんねんふしゃしゃ)」といえぱとて、一念を不定(ふじょう)に思うは、行が信を妨ぐるなり。信をば一念に生(う)まると信じ、行をば一形(いちぎょう)に励むべし。また、一念を不定に思うは、念々(ねんねん)の念仏ごとに、不信(ふしん)の念仏になるなり。その故は、阿弥陀仏は、一念に一度の往生をあて置き給(たま)える願なれば、念ごとに往生の業(ごう)となるなり。
(勅伝第21巻)dai15

【ことばの説明】
信行双修(しんぎょうそうしゅ)
信と行の双方を偏りなくともに修める事。「信」とは阿弥陀仏への信、あるいは本願力への信仰の事、そして「行」とは称名念仏の事である。
法然上人の在世時またその後継者の時代には、この信と行に関する様々な見解が生じたが、大別すれば「信」を重視する立場(安心派)と「行」を重視する立場(起行派)とに分かれる。そして前者は、たった一度でも唱えれば阿弥陀仏の本願に応えるに十分であり、信心が確立し、結果往生を果たす事ができるという立場(一念義)に近づき、後者は臨終を迎えるまでは可能な限り多くの念仏を唱えなければならないとする立場(多念義)に近づく傾向が強いとされる。しかしながら法然上人の立場はいずれとも異なるように思われる。つまりこの御法語にも示されるように、一たびの念仏で往生出来る事を信じながらも一生涯に亘って念仏を相続すべし、というのが元祖の立場である。
浄土三部経に数えられる『無量寿経』においては第十八願に「乃至十念」「乃至一念」と説かれ、「一念・十念」でも往生は可能であるという事になる。また善導大師『往生礼讃』にも「下十声一声に至るまで仏願力をもって往生する」事が可能であるとされている。

疎相(そそう)
「疎想」とも表記される。粗略なさま。またそのような心の在り様。

念々不捨者(ねんねんふしゃしゃ)
浄土宗立教開宗の文とされる次の一節「一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故」より。これは善導大師『観経疏』散善義の一文で、法然上人は大蔵経を閲覧する事三度、ようやくこの一節に出遭い専修念仏に開眼したと伝えられる。

一形(いちぎょう)
「形(ぎょう)」とは私たち人間の身体の事。「一形」とは一人の人間の一生涯、その身体が存続する間の事。

【現代語訳】
「わずかに一回や十回、念仏を唱えれば往生はできるのだ」と(経典に)説かれているからと言って、念仏をいい加減に唱えれば、(本願への)信仰が修行を妨げる事になります。(反対に)「念仏を常に相続し怠る事がない(のであれば往生が叶う)」と(善導大師によって)解釈されているからといって、「一回の念仏では往生は確かなものとはならない」と考えるのは、修行が信仰を妨げている事になってしまいます。(つまり)信仰の面では「一回の念仏で往生を遂げられる」と信じながら、修行実践の面では、一生涯に亘って(念仏の)行に励むべきなのです。
また、「一念(一回の念仏)では往生は定まらない」と考えるならば、(その結果として)一声一声の念仏が、その度ごとに「不信の念仏」となってしまいます。何故ならば、阿弥陀仏(のたてられた本願)によれば、一念ごとに一度の往生を割り当てられた願いなのであり、(つまり)念仏を行うたびにそれが往生の為の行いとなっていくからです。

法然上人の立場では「安心」と「起行」をともに具足してこそ往生が叶う。この御法語には法然上人の人間観が示されていると考える。確かに確固とした「信」を確立し、それを根拠とした念仏「行」を実践すれば、一遍ないし十遍の念仏で往生は確かなものとなるであろう。しかしながら私たち凡夫にとり、「信ずる事」加えて何よりもその「信ずる事」を持続する事が如何に困難であることか。だからこそ「行」により自らを励まし、「信」を深める事が何よりも大切なのである。
末世の凡夫に仏が残された道、私たちが仏道の歩みを弛まぬものとする事ができる唯一の道、
それこそが易行道としての「念仏」ではないだろうか?
合掌

和尚のひとりごとNo187「傳燈師」

残念なことに新種のウィルスの感染が広がっています。思えば様々な災害や疫病等により、私たちの生活は大きな影響を蒙ってきました。そのような中で、私たち共通の願いは、全ての生きとし生けるもの(一切有情)が平穏無事に暮らしていける世界であり、その願いにこそ仏心が宿ります。一刻も早くこの事態が終息に向かうことを心より祈念致します

 

本年11月に五重相傳會を厳修を致します。その案内をご覧になられて、「傳燈師」とはなんですかと尋ねられることがあります。go

今回は、門前の高札にあります五重相傳の三役「勧誡師」「回向師」「傳燈師」についてご紹介させていただきます。

「勧誡師」とは、受者に浄土宗の教えを分かりやすく解説し、その精神を伝える僧侶です。勧誡師の勧は善をすすめ、誡は悪を誡めるという意味があります。そして、念仏信仰の中にその生涯を全うし、往生浄土の素懐を遂げるために、念仏を申す仏教徒として、明るくたくましく生きてゆく道を受者にすすめるのが勧誡師の役割であります。

「回向師」とは、五重相傳會中に行う勤行の中で特別な回向(供養)をする僧侶のことです。

また同時に「回向師」は、法要の諸作法や注意事項などを指導したり、法要全体の進行・統括も行います。いわば、監督のようなものです。

そして最後に「傳燈師」ですが、

「傳燈」とは、仏法を灯火にたとえて、その火が絶えないように、師匠から弟子へと仏法の正統な教えを脈々と相伝していくことを意味します。伝えられる教えを「伝法」と申します。

つまり「傳燈師」とは、お釈迦さまから法然上人へと受け継がれてきた教えを受者に伝え授けることができる僧侶のことです。

五重相傳は特別な僧侶によって行われる法要です。いわば一期一会の法要であり誠に得難き仏縁であります。是非ご参加ください。

和尚のひとりごとNo186「心は同じ花のうてなぞ」

 

 「シャボン玉」という童謡があります。子供の頃に聞いたり、歌った事のある方も多いと思います。

  シャボン玉飛んだ  屋根まで飛んだ

  屋根まで飛んで   こわれて消えた

  シャボン玉消えた  飛ばずに消えた

  生まれてすぐに   こわれて消えた

  かぜかぜ吹くな   シャボン玉飛ばそ

 

 野口雨情(のぐち うじょう)さんの書かれた詩です。野口雨情さんは宗教的な意味合いの深い詩を沢山創られております。この詩でシャボン玉は儚い命を表しています。日本でお念仏の御教えを弘めてくださった法然上人は、我々の儚い命を「朝露(あさつゆ)の如し」と示されました。葉っぱの上の露は、いつ落ちて消えるか判りません。たとえ葉の上に残っていたとしても、陽に照らされれば、いずれ消えていきます。我々の命というものは朝露の様に、或いはシャボン玉の様に儚い命であります。屋根まで飛んだシャボン玉はいくつあるでしょうか。飛ばずに消えたシャボン玉もあるでしょう。色々な御縁を頂戴して皆、一生懸命生きています。どんな一生を送ったとしても、「屋根まで飛んでこわれて消えた」の詩と同様に、いずれ亡くなっていかねばならないのがこの世での命です。

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 野口雨情さんの子供さんは生まれてすぐに亡くなったそうです。或る日、雨情さんの近くの子供達がシャボン玉を飛ばして遊んでいました。それを見た雨情さんは、「もし我が子が生きておったなら、今頃はこの子供達と一緒に楽しく遊んでいただろうな。」その様に亡き幼子(おさなご)に想いを馳せて書いた詩だと言われています。大正時代のお話ですから、その当時は幼くして亡くなる子供が多くいました。今の様に医療技術も、食事の面でも恵まれていなかった時代です。雨情さんはその後、何人かのお子様を授かっておられますが、幼くして亡くした子供の事はいつまでも忘れられずに、この「シャボン玉」の詩に託されたと言われています。「かぜかぜ吹くなシャボン玉飛ばそ」は、「諸行無常の風よ、吹いてくれるな」そんな思いで、親の切なる願いで書かれたのだと思われます。諸行無常の世の中ですから、たとえ屋根まで飛んでも消えていかねばなりません。しかし「必ず御浄土に参らせていただく。間違いなく阿弥陀様に迎えとっていただいて、西方極楽浄土に往生させていただくのだ。」と、口に南無阿弥陀佛とお念仏を唱えるのが浄土宗のお念仏です。この世で命尽きても、後の世は御浄土の蓮の台(うてな)に生まれさせていただける。そして縁ある方とまた再会出来ると思い定めて、日々共々にお念仏申して過ごして参りましょう。

和尚のひとりごとNo185「法然上人御法語第十四」

前篇 第14 専修念佛(せんじゅねんぶつ)

~ただ生まれつきのままの身にて念佛せよ~gohougo

 

【原文】

本願の念佛には、独り立ちをせさせて、助(すけ)を差(さ)さぬなり。助というは、智慧をも助に差し、持戒(じかい)をも助に差し、道心(どうしん)をも助に差し、慈悲をも助に差すなり。

善人は善人ながら念佛し、悪人は悪人ながら念佛して、ただ生まれつきのままにて念佛する人を、念佛に助差さぬとは云(い)うなり。

さりながら、悪を改め、善人となりて念佛せん人は、佛の御心(みこころ)に適(かな)うべし。

適わぬもの故に、「とあらん、かからん」と思いて、決定心(けつじょうしん)起こらぬ人は、往生不定(ふじょう)の人なるべし。

(勅伝第21巻)

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【ことばの説明】

専修念佛(せんじゅねんぶつ)

阿弥陀佛の浄土へ往生を遂げる手段として、他の行を交えずに、専ら念佛のみを修めること。特に口に出して「南無阿弥陀佛」と称える事(称名念佛、口称念佛)を最も重視した法然上人門下の宗教的立場を表現する言葉。

 

智慧

インドの原語の智(jñāna ジュニャーナ)と慧(prajñā プラジュニャー)はほぼ同義であり、法(ものごと)を分析・弁別し、それが何ものであるか判断しようとする心の働きのこと。佛道修行に不可欠とされてきた三学(持戒・禅定・智慧)の一つに数えられるが、浄土門においては三学非器の自覚(凡夫であることの自覚)を前提に、阿弥陀佛の本願に頼り、念佛により往生を果たすことが目指される。

 

持戒(じかい)

戒をたもつことによって、悪しき行いを謹み、善き行いを習慣づける事。「戒」の原語はśīla(シーラ)で、本来は性格、傾向、習慣を意味する言葉だったが、次第に繰り返し行われる善なる行為すなわち「道徳的な生活習慣」を意味するようになった。

「持戒」は三学の筆頭に数えられ、生涯にわたって円頓戒(えんどんかい)の遵奉者(じゅんぽうしゃ)として持戒堅固(じかいけんご)な生活を貫いた法然上人によれば「戒はこれ佛法の大地」であるという。これは念佛者の中に破戒無慚(はかいむざん)に走る者たちがおり、それを戒めたものだと考えられる。その一方、極楽への往生の要件としては持戒は必ずしも求められておらず、念佛の一行のみが往生の要件である事が繰り返し強調されている。それは佛の慈悲が一切衆生(あらゆる機根の者)を救わんとする平等性に基づくものだからである。

 

道心(どうしん)

道心とは菩提心の事。菩提心(bodhi-citta ボーディチッタ)とは、菩提すなわち悟りを求め、体得したいと願う心で、佛道を志す者が必ず備えなければならない心であるとされるが、法然上人によればこの「菩提心」は往生のための必要条件ではない。往生の為の行としては、念佛が最も優れており、菩提心を始めとする諸行は念佛を支える助業としての役割を担うものでしかない。

 

慈悲

「慈」(maitrī マイトリー)と「悲」(karuṇā カルナ―)を合わせて「慈悲」という。「慈」とは「有情に楽を与えること」であるが、本来の意味は一切の衆生に対して抱く友愛(友情)を意味した。「悲」とは「有情の苦を抜くこと」であるが、本来の意味は「悲しみを共有すること」すなわち同情や共感を意味していた。

佛・菩薩の属性として強調されがちな「慈悲」であるが、初期佛教において既に「四無量心(しむりょうしん)」としてこの「慈」と「悲」が数えられている。この四無量心は出家の修行徳目として、観察の対象とすべき「四つの量りしれない利他の心」を意味している。やがて大乗佛教に到ると「慈悲」は菩薩の必ず具えるべき徳性とされ、特に救済の根拠としての性格が際立つようになっていった。『観無量寿経』には「佛心とは大慈悲これなり」とあり、阿弥陀佛の慈悲の広大さ、遍満性が強調されている。

 

決定心(けつじょうしん)

「決定」とは定まり動揺することのない状態、つまり「決定心」とは、阿弥陀佛へ信に基づき、間違いなくその浄土へ往生する事が出来ると確信する心を意味している。

 

【現代語訳】

本願の念佛はそれ自身として独立させて、(他の行の)助けをあえて差しはさむ事は致しません。(ここでいう)「助け」というのは、「智慧」(という行)を(念佛の)助けとする事、「持戒」を以て(念佛の)助けとする事、「菩提心」を以て(念佛の)助けとする事、あるいは「慈悲の心」を以て(念佛の)助けとして差しはさむという事です。

善人であれば善人であるがままに念佛し、(あるいは)悪人であれば悪人であるがままに念佛して、(つまり)ただただ生まれつきのそのままの在り様で念佛する人を、念佛の助けを差しはさまない人であると呼ぶのです。

それにも関わらず、(今までの)悪を悔い改めて、善人となって念佛を行おうとする者がいたとすれば、それは(それできっと)御佛の御心に適うものとなりましょう。

(ただし上の例を取り違えて)御佛の御心に見合わない自分自身であるとの思いから「ああだろう、こうだろう」と心を悩ませて、(その結果、佛の言葉の通りに)「必ず往生できるのだ」との思いが起らない人は(即ち)往生が確実ではない人となってしまうのです。

 

 

「ただ生まれつきのままにて念佛する人を、念佛に助差さぬとは云うなり」

「さりながら、悪を改め、善人となりて念佛せん人は、佛の御心に適うべし」

ただ生まれつきのままで念佛できるのであれば、何も思い煩う必要はないとする一方で、悪を悔い、善人となることを志した上で、念佛を行おうとするのであればそれは御佛の御心に適うものであるとのされる。

一見矛盾しているようであるし、時に両義的な表現をされるのが元祖上人なのではないだろうか?それぞれの言葉があたかも自分自身に向けられた如く感じ、念佛の道に入っていける、そのような力をこれらの言葉は持っていると思う。

最も大切なことは、決定往生の人となること、そしてそれは同時に決定往生の心を持てるということなのだろう。念佛為先、信こそが安心を生むが、その信は念佛一行により育てられるのである。

合掌

和尚のひとりごとNo184「廃仏毀釈」

去る2月7日に、『寺院消滅』の著者としても知られる鵜飼 秀徳上人のお話を聴いて参りました。大阪市内で開催された研修会でのことです。 『寺院消滅』は、今後25年のあいだに現在日本にある約7万7千の寺院のうち、およそ3割から4割、つまり2万から3万にもおよぶ寺院が消滅するという予測を統計的データのもとに示した衝撃的な書でした。様々なメディアにも取り上げられ、特に私たち僧侶にとりましては、改めて襟を正さなければならないと実感させる本でした。

 

今回は「廃仏毀釈150年目の寺院消滅」という演題でしたが、廃仏毀釈とはかつて明治政府により進められた神仏分離政策に乗じて、寺院が学校などの公共施設に変わったり、制度あるいは思想的な面での仏教側への不満から、文化財としての仏像や伽藍が破壊された一連の事象を指します。その廃仏毀釈の際に、かつて江戸末期には9万箇寺あったと言われる日本全国の仏教寺院が、4万5千あまりにも減ってしまったそうです。ただ意外だったのは、その後再び寺院は増加傾向に変わり、ピーク時には7万7千にもその数を伸ばします。これは廃寺になった寺の復興であったり、新たに開教の為に建てられた寺院であったりその内実は一様ではないでしょう。しかしながら人々の願いが寺院復興につながった事は紛れもない事実であったと思います。 ご先祖様があったからこそ、今の私たちがあることを実感できる場所、またあたかも浄土の如く荘厳された本堂にて、仏さまに手を合わせることで心の安らぎを得る。近世までの仏教寺院は地域の人々が集まる憩いの場であり、救いを求める場でもありました。 果たして現代の仏教寺院がその役割を果たせているのか?かつての日本は仏教国として世界でも有数の伽藍を擁し、その数は現在でもなお全国のコンビニエンスストアを合わせた数、また学校や幼稚園などの教育施設を合わせた数を上回っているそうです。 今回の研修会を通じて、改めて一仏教僧侶として、皆様に仏様のご縁をしっかりとつないでいける様に精進しなければならない事を実感致しました。

和尚のひとりごとNo183「よく聞き考え自分のものに」

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 相手から言われた事に対して納得した時には、「了解(りょうかい)」と言います。「了解」は「領解(りょうかい)」とも書きますが、仏教語では「領解(りょうげ)」と読み、お釈迦様の説かれた内容をしっかりと理解し、行ないとして我が身に修める事です。

 「領解(りょうげ)」は「領納解知(りょうのうげち)」を縮めた言葉で、納得して解ったという事。単に頭で分かったのではなく、自分自身の体に染み込んで体得(たいとく)出来たという事で、「解(げ)」と戴きます。頭では理解出来ても、行動が伴わないと「解」とは言えません。行動はするけれども、何の為なのか、目的意識がはっきりしていない事も「解」とは言えません。仏道修行では「信行具足(しんぎょうぐそく)」と言って、「信」(信仰)と「行」(修行)とが共に備わって、本物の修行者と言われます。

 例えば素晴らしい性能の自動車があるとします。いくら性能の良い自動車であってもガソリンを入れなかったら走りません。ガソリンを入れても、運転手が居なかったら走りません。そして自分自身に自動車を運転する心得が無かったら自動車を走らす事は出来ません。いざ走らす事が出来ても、目的地が無かったら何処へ向かって、どうハンドルを切っていけばよいのか解りません。目的地が有ってこそ快適なドライブが楽しめるのです。

 南無阿弥陀佛のお念仏は、阿弥陀様に最期臨終の夕べにお迎えに来て頂き、西方極楽浄土に往き生まれさせていただく御教えです。つまり浄土宗で説く「信」とは、西方極楽浄土と阿弥陀佛の存在を信じ、お念仏を申せば必ず救われる事を信じる事です。そして日々、口に南無阿弥陀佛と唱え続ける事が「行」であります。この「信」と「行」が車の両輪の如く上手くかみ合ってこそ、自分のものとなっていくのです。我々人間の目に見えないものを信じていく事は難しい事ですが、お念仏を申し続けていく事で信仰は深まって参ります。

 耳に聞き 心に思い 身に修せば やがて菩提(ぼだい)に 入相(いりあい)の鐘

 

 お念仏の御教えを素直に聞き入れ、心に御浄土を思い、口に南無阿弥陀佛と唱え続ければ、やがて命尽きた時には西方極楽浄土に迎えとっていただき、亡き人と再会出来るのです。その事を共々に、この世を生きる生きがいにしていていただけたらと思います。

和尚のほとりごとNo182「法然上人御法語第十三」

第十三 二行得失(にぎょうとくしつ)gohougo

~念仏は仏の御心に適った唯一の道である

 【原文】

往生の行、多しといえども、大いに分かちて二つとし給(たま)えり。一つには専修(せんじゅ)、いわゆる念佛なり。二つには雑修(ざっしゅ)、いわゆる一切のもろもろの行(ぎょう)なり。上(かみ)にいう所の定散(じょうさん)等これなり。

往生礼讃(おうじょうらいさん)に云(いわ)く、「若(も)し能(よ)く上(かみ)の如(ごと)く念々相続(ねんねんそうぞく)して、畢命(ひつみょう)を期(ご)とせば、十は即ち十生じ、百は即ち百生ず」。専修と雑行(ぞうぎょう)との得失(とくしつ)なり。

得(とく)というは、往生する事を得(う)。謂(いわ)く、「念佛する者は、十は即ち十人ながら往生し、百は即ち百人ながら往生す」というこれなり。

失(しつ)というは謂わく、往生の益(やく)を失えるなり。雑行の者は、百人が中(なか)に稀に一二人(いちににん)往生する事を得て、その外(ほか)は生(しょう)ぜず。千人が中(なか)に稀に三五人(さんごにん)生まれて、その余(よ)は生まれず

専修の者は、皆生まるる事を得(う)るは、何(なに)の故ぞ。阿弥陀佛の本願に相応(そうおう)せるが故なり。釈迦如来の教えに随順(ずいじゅん)せるが故なり。雑業(ぞうごう)のものは生まるる事少なきは、何の故ぞ。弥陀の本願に違(たが)える故なり。釈迦の教えに随(したが)わざる故なり。

念佛して浄土を求(もと)むる者は、二尊(にそん)の御心(みこころ)に深く適(かな)えり。雑修(ざっしゅ)をして浄土を求(もと)むる者は、二佛(にぶつ)の御心に背(そむ)けり。

善導和尚(ぜんどうかしょう)、二行(にぎょう)の得失(とくしつ)を判(はん)ぜること、これのみにあらず。観経(かんぎょう)の疏(しょ)と申す文(ふみ)の中(うち)に、多く得失を挙げたり。繁(しげ)きが故に出(い)ださず。これをもて知るべし。

(勅伝第25巻)

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【ことばの説明】

二行得失(にぎょうとくしつ)

ここで二行とは「専修(せんじゅ)」と「雑修(ざっしゅ)」のこと。

専修すなわち念仏に専念することによる利得と、雑修すなわち念仏以外の諸々の実践を行ずることによる損失の意味。

 専修(せんじゅ)

専修は専ら一行(一つの実践)のみを修めること。つまり他の行を交えず念仏行を専らとすることを意味している。

 雑修(ざっしゅ)

阿弥陀仏の本願に誓われた念仏行以外の様々な修行法を雑行と呼び、雑修とはその雑行を修めること。

 定散(じょうさん)

『観無量寿経』に説示される定善(じょうぜん)と散善(さんぜん)のこと。定善とは、心を特定の対象に定めて修める善行のこと。善導大師の解釈では『観経』に示される十三種の観法(定善十三観)を指し、韋提希夫人(いだいけぶにん)が釈尊に致請した結果示された浄土へ往生を遂げる為の修行。散善とは、心が常に外界の事象にとらわれて散乱した状態であっても実践可能であり、浄土往生の果を得ることのできる行を指し、同じく善導大師の解釈では、懇請あってではなく釈尊自らの意志で未来世の一切の衆生を浄土へ導くために説かれた散善三福九品(さんぜんさんぷくくほん)を指しているとされる。

こうした定善/散善を含め諸々の実践法の中で、阿弥陀仏に選択された本願の行である念仏こそが、その他の諸行とはくらべものにならない程勝れている、これが法然上人の結論となる。

 念々相続(ねんねんそうぞく)

「念念相続」とは、絶え間なくひたすらに念仏を称えること、本来的には、前念と後念(直前の意識とそれに続く意識)の合間に一切の余念を交えないことを意味し、念仏行の相続が仏への意識を途絶えさせないことと同義になっている。

 畢命(ひつみょう)

生命終えるその時。

 雑行(ぞうぎょう)

雑修に同じ。念仏以外の諸行。

生(しょう)ぜず

生まれて

生まれず

ここで「生まれる」「生ずる」は、ともに浄土への往生のこと。「往生」は本来的には「生ずる、達する、転生する」を指すという。つまり、極楽浄土へ行き生まれ出ること、輪廻転生の中において六道とは異なった世界である仏の国土への生まれ変わりを果たすことを意味している。

 随順(ずいじゅん)

心から信じ従うこと。

 二尊(にそん)

釈迦仏と阿弥陀仏のこと。浄土宗の教えにおいては、浄土の教えを説き示した釈尊を西方浄土への往生を勧め、送り出すという意味で発遣教主(はっけんきょうしゅ)と呼び、浄土へ来たれと招き喚(よ)ぶ阿弥陀仏を招喚教主(しょうかんきょうしゅ)として共に尊んでいる。第二祖聖光上人によれば、道理の上から釈迦・弥陀二尊を本尊とすべきだとも言われる。いずれにしても二尊の教説が決して異ならず一致していることが肝要であり、その御心が末代の凡夫を漏れなく仏の国土に迎え入れる点にあることを忘れてはならない。

 二佛(にぶつ)

二尊に同じ。

 多く得失を挙げたり

善導大師が『往生礼讃』において列挙している専修における「四得(しとく)」と、雑修における「十三失」のこと。「四得」とは、専修念仏の実践によって得る得益のことで、仏の本願や仏の言葉に決して違わず随順すること等が挙げられ、「十三失」とは反対に諸行の雑修の実践によって、仏の本願と相応することが出来ず、教えと相違してしまう事などが挙げられている。

 

 【現代語訳】

(経典に示される)往生の為の修行は多いが、(善導大師は)2種に大別できると仰っている。その内第一は専修、すなわち念仏である。そして第二は雑種、すなわち(念仏以外の)あらゆる修行法である。(そしてこれら専修と雑種を含めた全ての修行法とは)既に述べたところの定善と散善によってカバー出来る。

(善導大師の)『往生礼讃』が記すところでは「もし、前に述べた如く念入りに、念仏を絶やすことなく持続した後に生命を全うすることが出来た場合は、十人中十人皆が往生し、百人いても百人全てが往生することになる」とある。(まさにこれが)専修(を行うこと)の得益と雑種(を行うことの)損失とを説明した件(くだり)である。

(ここで)「得益」と呼ぶところのものは、往生することを得るということである。すなわち「念仏する行者は、十人いればその十人がそのまま往生し、百人いればその百人がそのまま往生する」というこのことを指している。

(また)「損失」と呼ぶのはすなわち往生できるという得益を失ってしまうことである。雑種を行ずる者が百人いる中でも、稀に一人か二人しか往生することが出来ず、その他の(大半の)者は(ついに)往生することが出来ないと言われる。(また仮に雑種を行ずる者がさらに)千人いたとしても、その(千人の)中で、ごく稀に三人、ないし五人が往生するが、その他の(大半の)者は往生出来ないとも言われている。

(では)専修の者が皆須く(浄土に)生まれ出ることが出来るのは何故であろうか?(それは)阿弥陀仏の本願に適切に対応しているからである。(同時に)釈迦如来の教えを心より信じ、その教えに従っているからである。雑種を行ずる者が浄土に生まれる確率が低いのは何故であろうか?(それは)阿弥陀仏の本願に背いているからである。釈迦如来の教えを信じず従っていないからである。

念仏を実践して浄土を念願する者は、(一切の衆生を漏れなく救わんとする)二つの尊い仏のみこころに深く適っている。(対して)雑種を行ずることによって浄土を求める者は、二つの尊い仏のこのみこころに背いていることになる。

善導和尚が(専修と雑種の)二つの行を判別されたのは、ここで述べた内容に留まるものではない。『観経疏』という書物を著す中で、より多くの得益と損失を上げておられる。煩雑なのでここで引用することは控えるが、以上述べてきたことをもって理解して頂きたい。

 

 念仏すれば全ての人が往生を遂げられるというのは、法然上人の御教えを受け継ぐ私たちの信念であり、安心の拠り所であります。しかしながら八万四千の法門と言われ、あるいは大海にも喩えられる仏の教えの中には、仏国土への往生を遂げる為の実に様々な方法が説示されています。数ある阿弥陀浄土をとくに説く経典の中で、『般舟三昧(はんじゅざんまい)経』においては、仏ならびに極楽浄土の様相を深い禅定の境地において体感する観想念仏が示され、浄土三部経に数えられる『観無量寿経』には定善十三観の観法より九品散善に至るまで様々な往生人のあり方(往生に向けた実践形態)が説かれています。ではそういった諸行によって往生することは可能であるのか?

浄土宗の二祖となった聖光上人の言葉が残されています。

諸行往生称名勝(諸行は往生すれども称名勝れたり)

我閣万行選仏名(我れ万行をさしおきて佛名を選ぶ)

往生浄土見尊体(浄土に往生して尊体を見たてまつる)

仏の御心はどこにあるのか?それは万人に開かれた道を示すことでありましょう。仏の本願に誓われ、その本願に適合する念仏を、仏の言葉そのままに慮りなく受け取り相続すること、このことこそが私たちの目の前に開かれた道であり光明である。そのような気がしてなりません。

合掌

和尚のひとりごとNo181「顕道上人」

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玉圓寺蔵の掛け軸です。


浄土宗では”南無阿弥陀佛”の六字名号に大きな功徳を認めています。法然上人が師と仰がれた方に中国 唐の善導大師がおられます。大師の著書『観経疏』によれば、『南無と言うはすなわちこれ帰命(きみょう)なり、またこれ発願回向(ほつがんえこう)の義なり。阿弥陀仏と言うは、すなわちこれその行なり』とあります。この意味は、念仏を十分に称えた者は、浄土へ即得往生を遂げることができます。それこそが六字名号が表わす大いなる功徳であると記されています。


さて玉圓寺のこの名号は顕道上人によるものです。徳蓮社万誉顕道(とくれんじゃばんよけんどう)上人の活躍された時代はやがて幕末を迎える寛政年間のこと、一七九〇年は越中国(現富山県)に生まれ、のちには大僧正となり、朝廷より、「高顕真宗国師(こうけんしんしゅうこくし)」の諡号(しごう)を賜(たまわ)る事となりました。
出家してのち安城松平氏の菩提寺として知られる三河(現愛知県)大樹寺の隆也に学び、越中の大楽寺を経て、鴻巣の勝願寺の住持となりました。勝願寺(しょうがんじ)は浄土宗第三祖記主禅師(きしゅぜんじ)の創建に遡ると言われ、関東十八檀林にも数えられた御由緒寺院です。その後、孝明天皇より勅許、徳川十二将軍代徳川家慶公の推挙もあり、嘉永元年(一八四八)九月一九日、当時としても異例の若さである五十九歳にして知恩院七十一世門主に就きました。日本海沿岸地方からは初めての祖山御門主への就任であり、宮中とのつながりもそれは深かったと言われています。晩年はかつての大楽寺にて師の禅誉上人や御両親の追善法要を勤め、安政五年(一八五八年)五月十二日に往生を遂げたと言われています。

十夜会、彼岸会等の法要の時に座敷にお掛けすることもございますので、その際にはご覧下さい。

和尚のひとりごとNo180「『おはよう』笑顔かがやく」

  「笑う門には福来たる」と言われます。家族仲睦まじく生活し、日頃から笑いの絶えない和気藹々(わきあいあい)とした家庭には幸福が訪れるものです。家庭内にかかわらず、仕事場や所属する組織においても笑顔の絶えない雰囲気に包まれた場は大変居心地の良いものでしょう。2020itigatu

 仏教語に「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉があります。「和らいだ笑顔と愛情のこもった穏やかな言葉で相手に接する事」を意味します。これは『無量寿経』の中に出てくる言葉で、阿弥陀様が四十八の誓願を立てられ、それが成就した後に求道者としての尊い行いの一つとして説かれています。笑顔で過ごす事も一つの施し、お布施であると言われるのです。お布施と言うと金品を施す事をイメージされる方が多いと思いますが、「無財(むざい)の七施(しちせ)」と言って、財産や品物でなくても出来るお布施が『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』というお経の中に説かれています。

 

「眼施(げんせ)」:澄んだ優しい眼差しで応じる事。

「和顔悦色施(わげんえつじきせ)」:和やかな優しい笑顔で接する事。

「言辞施(ごんじせ)」:優しい思いやりのある言葉で接する事。

「身施(しんせ)」:体で出来る事は進んでさせてもらう事。

「心施(しんせ)」:心から愛情を注ぎ、思いやりの心で相手の立場になって接する事。

「床座施(しょうざせ)」:座席や場所を譲る事。

「房舎施(ぼうしゃせ)」:部屋を綺麗にしてお客様を招き入れ、不快な感じを与えない事。

 

 以上、七つの施しによって相手に喜んでもらうだけではなく、施した自分自身も育てられていくものです。特に「眼施(げんせ)」や「和顔悦色施(わげんえつじきせ)」、「言辞施(ごんじせ)」は日々の暮らしの中で出来る心がけであります。自分自身の姿を正しく修めるように心がけるだけで、周りの人を明るく幸せにする事が出来ます。心がけ一つで自分も周りの人々も幸せなります。先ずは「おはよう」と笑顔で挨拶する事から共々に心がけて参りましょう。

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